ご挨拶 - Profile -

このページは、陶芸家川瀬忍のプロフィールと今までの個展Worksを編集しております。
中国、官窯青磁の魅力に憧れ、自然界からの閃きを求め、
そのつどテーマによる個展発表を続けて参りました。
これからも、土の持つ「柔らかな、温かみ」を表現したく思っております。

English Page
  • 2017年
  • 現代陶芸「寛土里」第20回<個展>『薬壺』 ◆作品◆
  • 2017年
  • 東京日本橋「壺中居」第10回 <個展>『机辺 掌中』 ◆作品◆
  • 2016年
  • 現代陶芸「寛土里」第19回 <個展>『深紅妖婉』 ◆作品◆
  • 2015年
  • 東京日本橋「壺中居」第9回 <個展>『輪花 輪葉』 ◆作品◆
  • 2014年
  • 日本陶磁協会賞金賞を受賞、銀座「和光ホール」で記念展
    N.Y. 「Joan.B.Mirviss Ltd」第3回<個展>
    『The Blossoming of Celadon /青磁の開花』 ◆作品◆
  • 2013年
  • 現代陶芸「寛土里」第18回<個展>『深淵』 ◆作品◆
  • 2012年
  • 東京銀座「中長小西」<個展>『しろゑ』 ◆作品◆
  • 2012年
  • 「Art fair Tokyo 2012壺中居ブース」<序幕>『絞胎』
    東京日本橋「壺中居」第8回<個展>『絞胎』 ◆作品◆
  • 2011年
  • 菊池寛実記念 智美術館<個展>
    『川瀬忍の青磁 天青から 静かなる青へ』 ◆作品◆
  • 2010年
  • 現代陶芸「寛土里」第17回<個展>『滄浪』 ◆作品◆
  • 2009年
  • N.Y. 「Joan.B.Mirviss Ltd」第2回<個展>
    『Flowering Waves of Celadon /華青波』 ◆作品◆
    銀座 「黒田陶苑」 川瀬忍 酒器展 ―吟上のうつわ―  ◆作品◆
    「壺中居」第7回<個展>『外焔』 ◆作品◆
  • 2008年
  • 現代陶芸「寛土里」第16回<個展>『妖青の祈り』 ◆作品◆
  • 2007年
  • 「壺中居」第6回<個展>『理非曲直』 ◆作品◆
  • 2006年
  • 現代陶芸「寛土里」第15回<個展>『静盌』 ◆作品◆
  • 2005年
  • 「International Asian Art Fair」( N.Y. Joan.B.Mirviss Ltd)<個展>
    『The Serene of Celadon / Seijaku no bi』 ◆作品◆
  • 2004年
  • 「壺中居」第5回<個展>『捫扣有清聲-II』 ◆作品◆
  • 2003年
  • 「茨城県陶芸美術館」<白磁・青磁の世界>出品
    現代陶芸「寛土里」第14回<個展>『耳珠』 ◆作品◆
  • 2002年
  • 「壺中居」第4回<個展>『捫扣有清聲』 ◆作品◆
  • 2001年
  • 現代陶芸「寛土里」<三人展>『とら・TORA・虎』 ◆作品◆
  • 1999年
  • 現代陶芸「寛土里」第13回<個展>『香気』 ◆作品◆
  • 1998年
  • 「壺中居」第3回<個展>『鈞鎬』 ◆作品◆
  • 1997年
  • 現代陶芸「寛土里」第12回<個展>(「きょう あす あさって」茶の器に託す造形)『白玉尖』 ◆作品◆
  • 1996年
  • CONTEMPORARY JAPANESE CRAFTS(国際交流基金、巡回展)出品
    現代陶芸「寛土里」第11回<個展>『人鳥(ペンギン)』 ◆作品◆
    「信楽県立陶芸の森」<現代の陶芸美-凛->出品
    「大垣市郷土館」第2回<二代竹春、忍、竹志、父子三人展>出品
  • 1995年
  • <美の継承>(東京美術青年会創立60周年記念新作展)出品
  • 1994年
  • 現代陶芸「寛土里」第10回<個展>(「きのう きょう あした」茶の器に託す造形)『風麗呼』 ◆作品◆
  • 1992年
  • 現代陶芸「寛土里」第9回<個展>『鶴汀』 ◆作品◆
  • 1991年
  • 「阿曾美術」(東京銀座)「オーロラの心象(イマージュ)」と題した三人展と書籍を刊行 ◆作品◆
    現代陶芸「寛土里」第8回<個展>(「きのう きょう あした」茶の器に託す造形)『茶碗』 ◆作品◆
  • 1990年
  • 現代陶芸「寛土里」第7回<個展>『香炉』 ◆作品◆
  • 1989年
  • 「大垣市郷土館」<二代川瀬竹春、忍、竹志、父子三人展>
    「壺中居」第2回<個展>『玉意憧』 ◆作品◆
  • 1988年
  • 現代陶芸「寛土里」第6回<個展>(「きのう きょう あした」茶の器に託す造形) ◆作品◆
  • 1987年
  • 現代陶芸「寛土里」第5回<個展> ◆作品◆
  • 1985年
  • 「壺中居」第1回<個展>(文房具) ◆作品◆
  • 1983年
  • JAPANESE CERAMICS TODAY(Smithsonian Institution Washington D.C.)と
    (Victoria and Albert Museum, London)出品
    現代陶芸「寛土里」第4回<個展> ◆作品◆
  • 1982年
  • 現代陶芸「寛土里」第3回<個展> ◆作品◆
  • 1981年
  • 「壺中居」第3回<竹春三代展>
    日本陶磁協会賞を受賞
  • 1979年
  • 現代陶芸「寛土里」第2回<個展> ◆作品◆
    「壺中居」第2回<竹春三代展>
  • 1977年
  • 「大垣市文化会館」<川瀬竹春三代四人展>
    「壺中居」(東京日本橋)第1回<竹春三代展>
  • 1976年
  • 現代陶芸「寛土里」(東京ホテルニューオータニ内)第1回<個展> ◆作品◆
  • 1968年
  • 祖父(初代竹春)、父のもとで作陶を始める
  • 1950年
  • 二代竹春の長男として、神奈川県大磯に生まれる
Japanese Page
  • 2017
  • "KANDORI"<Solo Exhibition>-20『YAKKO』 ◆Works◆
  • 2017
  • "KOCYUKYO"<Solo Exhibition>-10『KIHEN SYOCHU』 ◆Works◆
  • 2016
  • "KANDORI"<Solo Exhibition>-19『SINKU YOUEN』 ◆Works◆
  • 2015
  • "KOCYUKYO"<Solo Exhibition>-9『Rimka Rimpa』 ◆Works◆
  • 2014
  • Japan Ceramic Society’s the Gold Prize
    <Solo Exhibition>-3
    『The Blossoming of Celadon』 ◆Works◆
  • 2013
  • KANDORI<Solo Exhibition>-18『SHINEN』 ◆Works◆
  • 2012
  • NAKACHO KONISHI ARTS <Solo Exhibition>-8『SHIROE』 ◆Works◆
  • 2012
  • Prologue Art Fair Tokyo 2012『KOHTAI』
    KOCYUKYO <Solo Exhibition>-8『KOHTAI』 ◆Works◆
  • 2011
  • Musée Tomo<Solo Exhibition>
    Beyond Tradition – Seeking His Serene Blue : Celadon Works by Kawase Shinobu 』 ◆Works◆
  • 2010
  • KANDORI<Solo Exhibition>-17『SOUROU』 ◆Works◆
  • 2009
  • Joan.B.Mirviss Ltd <Solo Exhibition>-2
    『Flowering Waves of Celadon /Kaseiha』 ◆Works◆
    GINZA TOKYO 「KURODATOUEN」 <Shinobu’s Sake Vessel> 『GINJO NO UTSUWA』 ◆Works◆
    KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-7『GAIEN』 ◆Works◆
  • 2008
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-16『YOUSEI NO INORI 』 ◆Works◆
  • 2007
  • “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-6『 RIHIKYOKUCHOKU』 ◆Works◆
  • 2006
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-15 『 SEIWAN 』 ◆Works◆
  • 2005
  • 「International Asian Art Fair」( N.Y. Joan.B.Mirviss Ltd)<Solo Exhibition>
    『The Serene of Celadon / Seijaku no bi』 ◆Works◆
  • 2004
  • “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-5『 MONKOUSEISEIARI-II』 ◆Works◆
  • 2003
  • <White Porcelain and Celadon> (Ibaraki Ceramic Art Museum, Ibaraki)
    “KANDORI”<Solo Exhibition>-14 『MIMITAMA 』 ◆Works◆
  • 2002
  • “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-4『 MONKOUSEISEIARI』 ◆Works◆
  • 2001
  • < Three-person show> 『TORA  TORA  TORA』 (Kandori) ◆Works◆
  • 1999
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-10  『KOUKI』 ◆Works◆
  • 1998
  • “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-3 『KINKOU』 ◆Works◆
  • 1997
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-12 (Kyou Ashita Assate  『HAKUGYOKUSEN』 ◆Works◆
  • 1996
  • CONTEMPORARY JAPANESE CRAFTS (Japan Foundation)
    “KANDORI”<Solo Exhibition>-11 『PENGUIN』 ◆Works◆
    <Rin – Beauty of Contemporary Ceramics>(Sigaraki Ceramic Cultural Park Museum, Shiga)
    <Father-son Three-person show>-2  ( Ogaki Library, Ogaki in Gifu)
  • 1995
  • <Bi no Keisyou> (The Tokyo Art Club Young Men’s Association)
  • 1994
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-10 (Kinou kyou Ashita) 『FUREA』 ◆Works◆
  • 1992
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-9『KAKUTEI』 ◆Works◆
  • 1991
  • < Three-person show> 「Aurora」 ( Aso Bijutu,  Ginza  in Tokyo) ◆Works◆
    “KANDORI”<Solo Exhibition>-8  (Kinou kyou Ashita)『CYAWAN』 ◆Works◆
  • 1990
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-7 『KOURO』 ◆Works◆
  • 1989
  • <Father-son Three-person show>  ( Ogaki Library, Ogaki in Gifu)
    “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-2『GYOKUISYOU』 ◆Works◆
  • 1988
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-6 (Kinou kyou Ashita) ◆Works◆
  • 1985
  • “KOCYUKYO”<Solo Exhibition>-1 (BUNBOUGU) ◆Works◆
  • 1983
  • JAPANESE CERAMICS TODAY(Smithsonian Institution Washington D.C.) and
    (Victoria and Albert Museum, London)
    “KANDORI”<Solo Exhibition>-4 ◆Works◆
  • 1981
  • <Chikushun Three Generations Exhibition>-3 (Kochukyo)
    Received The Japan Ceramic Society Award
  • 1979
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-2 ◆Works◆
    <Chikushun Three Generations Exhibition>-2 (Kochukyo)
  • 1977
  • <Kawase Chikushun:Exhibition of Three Generations> (Ogaki Municipal Culture Hall, Ogaki in Gifu)
    <Chikushun Three Generations Exhibition>-1  (Kochukyo, Nihon-basi in Tokyo)
  • 1976
  • “KANDORI”<Solo Exhibition>-1 (Hotel New Otani inTokyo) ◆Works◆
  • 1968
  • Started working with my grandfather,Chikushun,and farther,Chikushun
  • 1950
  • Born in Oiso, Kanagawa Prefecture

独り言 - Soliloquy -

南都、「国宝 薬師寺東塔基壇土」を頂いて
2017年 寛土里個展に寄せて

薬師寺白鳳伽藍復興の行事のひとつ「平成の至寶百選」展のお話を頂いたご縁で、
恥かしながら、薬師寺さんへ初めて伺った。
折しも、東塔の全体が全て解体され、基壇の上に、いくつもの礎石が並んでいる時期であった。
加藤執事長様のご案内で再建の為の鞘堂内に入れて頂き、礎石の上に立たせて頂いた。
その下には、五センチ単位で幾層にも堅く重なった、二メートル以上の厚い基壇の土を見せて頂く。

御老師様のご説明では、
「今、あなたが立っているところは、遠く白鳳時代のうら若き女性たちが、ひたすら長い棒を握り、槌堅めたところですよ」と、伺った。
そして、心柱の芯が傷んだため、中を鑿で削っているところへ入れて頂くと、気品ある木の香りが漂っていた。
すると、
「あなたが聞いているこの香りは、白鳳の香りです」と言われ、
先ほどの基壇の上に立たせていただいたことといい、なんと有り難い贅沢な時間で有ったろう。

帰宅して、時が経つにつれ、その重さというか、
そのような、一三〇〇年前の基盤に足を置かせて頂き、香を聞き、白鳳という時代、 
そして、それ以降の長い歴史を感じた。
よくよく考えてみると、なんとも貴重な経験をお与え下さったと、感謝しておりました。

そんな想いの折り、
「あの東塔の基壇土」を使いませんかと、ご連絡があり、
サンプルを受け取らせて頂いた。
見る限り、私の制作する青磁には、まったく向かない。
とりあえず、成形が出来るか?
耐火度はどの位か? 試みてみた。

驚いた!
基壇の土は、「可塑性の粘土質の土」(赤土と白土)と、「砂」、それに、
「砂利」なのである。
将に、現代のセメント、砂、砂利の「コンクリート」の構成と同じ、
この混ざり具合が一三〇〇年もの長い時間、あの東塔を支え続けたのである。

そして、耐火性もかなり高く、一二八〇度以上で焼成しないと、
焼き締まらない土であった。

青磁には、まったく、向かない。
この土の特徴を生かして、何を作ろう?
そして、焼成方法も何種類か試みた。

この土は、私の憧れる白鳳時代の、畏れ多い土であり、
あの混ざり具合が、東塔を一三〇〇年以上の長きに渡り、
支え続けたのである。

これ以上、混ぜることをしないと決めた。
(普段は粘土を平均に混ぜて使用することが常である)
そこで、ひたすら伸させて頂き、丸い煎餅のように薄く伸ばした
(土は叩いただけでは混ざらない、また、大きな石は外す)

そして、それをゆっくり撓め、包み込むように絞っていき、
もっとも、素直な形である応量器というか鉄鉢状の形にした。

そして、筒へ

今回は、
土に何かを加えようとか、表面に塗ることも、一切省いて、
作り手の職分である『形』を作らせて頂くことのみに徹した。

それは、
この畏れ多い土の由緒に、畏敬の念を持って、
預かり、調えて、そっと送り出すことが、
僕の役目と感じたためである。

いつも、粘土を触った手は、汲み置けのバケツで洗っている。
繰り返し洗っていると、夏場だと一週間ほどたつと、酵素が発生する。

今回、薬師寺東塔基壇土を触らせて頂いた後は、
新たに専用のバケツを用意した。
しばらくすると、いつものとは違う香りがしてきた。

これはきっと、
「白鳳の眠っていた酵素」が我が家の酵素に
エッセンスを与えてくれたものと信じたい。


このような思いを抱きながら、形を作らせて頂いたものを、
永くご縁を頂き、深くお世話になった、
故 菊池智様が開かれた、現代陶芸「寛土里」に於いて、
皆様にご覧頂く機会を戴きました。


平成二十九年盛夏    川瀬忍 拝

   作品集へ

「修内司」と呼ばれる下蕪花入
2017年4月1日 なごみ(4月号) 寄稿

川瀬 忍

青磁花入の中で、最も「気品」という静寂な佇まいをもつ、この花入は私の憧れである。
正面からの照明の中、錦の仕覆から静かに取りいだされ、そっと置かれた。
逆光でまったく色が見えず、ただ、シルエットが浮かんでいる。
僅かに受ける口辺の鍔、
頸は、直線でありながら僅かに広がる。
その緊張感ある上部を、おっとりとした胴の膨らみが僅かな下蕪形で受けている。
そして、僅かに広い目の高台。
この「僅かさ」がもたらす調和である。しばらく、その姿のみの世界に見とれ、浸っていた。
ほどなく、撮影用の明かりが消され、春浅く冷たい風に澄み切った晴天の自然光が差し込んだ。
ほんの少し緑を抑えた、縹色というか水色を帯びた青。それも艶を抑え、やや失透性のある柔らかな釉調である。
この釉調が静かな佇まいの姿をより深くし、「気品」を醸し出すのであろう。
担当学芸員の三笠景子氏が、「この花入は、李迪の『紅白芙蓉図』と合わせたいですね」とおっしゃった。
南宋の画家でありながら北宋の風情を残す李迪の画はしばしば「北宋回帰」と表現される。
砧青磁の中で別格の美しさを誇る「修内司」も、まさしく青磁の「北宋回帰」といえる。
帰路、ひとり夢のような取り合わせの空間を想い浮かべる。
頬をさす冷気がここちよかった。


  (なごみ〈4月号〉 特別撮影 川瀬忍  国宝 青磁下蕪花入を見る より)

輪花輪葉
2015年壺中居個展に寄せて

川瀬 忍

――作為から無作為へ――

無作為ほど

作為的なものは

なかった



 

智美術館での「天青から 静かなる青へ」展から、青磁の発表は四年近く経ってしまった。
 永く、粘土の持つ可塑性を表現するにあたり、花をイメージした「輪花」の形を追い求め、鱏、オーロラ、波涛、などの「うねり」の美しさにも、心を魅かれた。
再度、初心に還りたくなり、蓮の花を近くの蓮池で眺める。
そっと包み込みたくなるような、蕾の愛らしい美しさ、
大きく開いた大輪の豊かな膨らみ。
ふと気がつくと、蓮池には、花の数以上に葉が一面にあることに眼が向いた。
それも、どれひとつとして、同じ形ものは見当たらない。
どれを見ても蓮の葉である!!
 轆轤を挽いて、その時の心象に委ね、無作為に思いのままに曲げれば、全て蓮の葉になると、安易な気持ちで、取り組んだ。
ところが、自然のような姿に曲げることは、大変難しいことを、思い知らされた!!
作為のある、規則法則に基づいた「輪花」の方が、形を纏めやすい。
無作為のような自然にみせるには、究極に作為的にならないと、表現出来ないことを痛感した。
 「無私な造形」には、まだまだ、である。


 個展「輪花輪葉」(2015年壺中居9回展)に寄せて
   作品集へ

欠を補うに余りある美

川瀬 忍

東京国立博物館・東洋館「日本人が愛した官窯青磁」展を拝見して

 この五月から、東京国立博物館・東洋館の五室では、宋代官窯青磁の大変贅沢な特集展示が開催されている。もうすでに、『陶説』(七三五号)でも詳しく解説がなされているので、ご覧になられた方も多いと思う。この企画展示は、大々的なキャンペーンをする特別展の様な前宣伝はほとんどしていなかったが、その展示内容には、そっと、静かに迎え待つような佇まいを感じた。
 この展覧会は、かつての日本人が、今日のように中国からの窯址報告もほとんどない時代に、中国の文献上に出てくるまだ見ぬ憧れの宋時代の青磁窯を求めて、作品の美しさ、品格といったものを基準に青磁を観てきた鑑識眼を、今一度、日本に伝わった青磁の優品を通して顧みようとする企画である。そうしたかつての日本人による感性溢れる眼を持って行われた鑑識と研究は、今日中国からの窯址資料が多く出てきても、ゆるぎなく、却って、そうした窯址資料が、日本人の鑑識眼を裏付ける形となりつつあるようにさえ思える。

 さらに、今回の出品作には、当時どこの窯で生まれたものか解からないにもかかわらず、やはり何か特別の魅力があるということで取り上げられた青磁の優品も並べられており、改めて青磁を観ることの面白さ、奥深さを教えてくれる。

 ところで、今回、この官窯青磁展を特集した『陶説』(七三五号)で、常盤山文庫の佐藤サアラさんが、同展出品作の「米色青磁洗」(南宋官窯 南宋時代 常盤山文庫蔵)の作品解説で次のように述べられ、大変嬉しいと云うか、勇気付けられる思いをした。

 「南宋官窯とされる作品を見ていると、必ずしも完全無欠は見て取れず
  むしろ欠を補うに余りある美点をもった作品と見えてくる。
  理想を追い求めた官窯であったからこそ様々な試行錯誤が許され、
  その過程で偶然できた作品もあっただろう。
  青ではない米色もそうした一つかもしれない。本作には縁に窯傷があるが、
  捨てられることなく現代まで残っているその事実に、不完全でありながら
  誰かが美を認め、残すことになった歴史を感じさせる」

私はこれまで、窯から焼き上がった自作を選別する際に、「欠」がないが無難な作を出品していた。まず欠点を探して、それがあるものを捨て、残ったものの中から無難な作品を選んでいたのである。それは、自信がないということもあったが、一つの欠点があっても許されないという風潮が、私の作品を扱ってくださる現代陶芸の美術商の方々には少なからずあったからである。彼らから欠点を見つけられて、「これは、何でしょうか?」の一言に、辛い想いをし、耐えていたように思う。工人として、焼き上がった自作に対して、最初に本人自身がしなくてはならない選別に、絶えず悩んでいた。一番ましな作と「欠」がないが無難な作とどちらかを選択しなくてはならない時、作家はどうするべきかと。
 しかし、数年前、意を決し、選択の順序を変えてみた。まず、最初に一番ましなものを選んでみる。すると、どこかに欠点が見つかることが多い。悩むが、この欠点(黒ポッチ、ピンホールなど)とは何だろう。作家自身が心を省いたり、手を抜いたり、技術が劣っていたりしたものではない。もともと、粘土に含まれていた、目に見えなかった「精」ではないか。私はそうした欠点を焼成中の、窯の内で天から賜った「精」と解釈したのである。そして、天睛(てんせい)、笑苦火(えくぼ)と自ら呼んでみた。その作品には箱書きに「天睛」(天からのひとみ)
と云う小さな印(写真)を冠して数点発表した。

 唯、この「天晴」とした作品を、先の佐藤サアラさんの解説にある南宋官窯の「欠を補うに余りある美点」があるなどと同じように云うことは、作り手として、言ってはならぬ、おこがましいことだと思っている。そもそも、「欠を補うに余りある美点」などと唱えるのは、皇帝の様な立場の者でなくては言えない。
 中国の官窯の代表とされる景徳鎮官窯は、都の北京からはるか遠く離れたところにあった。窯と都が遠く離れていたら、当然検品し、皇帝に届ける役人がいたはずである。 ほんの少しでも、欠があるものを収めたら、首が飛ぶこともあっただろう。しかし、南宋官窯は皇帝が居る都の杭州の中にあった。ひょっとして、皇帝が窯場に赴き、自らの美的鑑識眼に叶う作品を選び抜いたのではなかろうか。たとえ、それに欠が有ったとしても。
 最近、親しい美術商さんから、「お勧めしやすい、無難な作品」ではなく、「お客様に売りたくない作品」(自分のところに置いておきたい作品)を仕入れるのが店の教えだと聞いた。簡単なようだが、凄いことである。将に皇帝の気概である。
 作り手として、そのような、売りたくない作品が生まれることを願っているが、そう思ったとたんに、作家本人の自己満足による思いあがりの始まりであろうか。

深淵
2013年、寛土里個展に寄せて

川瀬 忍

一昨年(2011年夏)菊池寛実記念 智美術館に於いて、 『川瀬忍の青磁 天青から 静かなる青へ』という、新作と合わせ、その時点までを、振り返る展覧会を開催して頂いた。
会期を閉じるあたりから、何人かの方々に、「次回は何をするのですか?」と云う、プレッシャーを頂くことと同時に、自身でも区切りと云うか、気持ちを改めたくなり、青磁の発表を2年間、休むことを決意する。

それまで、ほとんど、毎年一回の発表をしており、怖い心境にもなった。

そのような中で、「水下」の次は、「天目形」にと心が揺れはじめ、
当初は、淡く、暖かみのある釉薬に拘っていたが、ふと、以前から,温めていた兎毫の釉文が表われる、深い色のテストピースが有ることを思い出し、施釉を試みる。

この様な釉薬に取り組むと、どうしても、形が疎かになりがちである。
とくに、どの作品を出品するかを選定する時、自身でも驚いた。

ついつい、窯の上りを!!!
そこで、一歩、いや、二歩離れて、形を眺め、

そして、この「翠瓷茶碗」で一服喫するときは、、、、、、
と、深淵なる世界を覗く心持ちになっていた。


   作品集へ

しろゑ
2012年 中長小西展に寄せて

川瀬 忍

「粉青沙器」 「粉吹」 「しろゑ」
青磁制作に取り組みながら、永年にわたり、秘して窯に入れているものがある。
それが、「粉吹」

美術史家からは「粉青沙器」
数寄者からは「粉吹」と、呼ばれている。
「しろゑ」すなわち、白い衣(化粧土)を纏った、青磁である。

窯出しされた中から、気に入ったものを、可愛がっているが、青磁と違い、徐々に、変幻していくのも、楽しみなものです。
ついつい、想い入れ過ぎてしまい・・・・。
「粉吹」の魅力のひとつに、この「沁み」があり、どこで留めるかが、それぞれの美意識である。

作り手として、制作の手を、どこで留めるかを悩み続けることは、常であるが、今回は、皆様にそのあたりを 委ねさせて頂きました。


   作品集へ

砧が一番!
2012年 陶説(707)寄稿

川瀬 忍

当時、十八歳の私は、祖父である初代竹春から、そう教わった!
なるほど、祖父が勉強した頃は、官窯青磁の存在は、まだ薄かった。 青磁は、「砧、天龍寺、七官」という時代である。
釉薬を厚く掛けると、釉色が濃く深くなることに気付いたタイミングのとき、それを見ていた祖父は、自身のコレクションであった参考品の砧青磁袴腰香炉(南宋龍泉窯)を、私に見せ、「これに負けないようなものを作ってみろ!!」と、与えてくれた。 
父からは、勝手な仕事をしたら、怒鳴られた修行時代であるが、祖父が言ったことであり、この青磁研究をすることだけは、父は許さざるを得なかったようであった。
このことが、私を青磁の世界へ導いてくれた、きっかけである。
当然ながら、色見のテストピースを作ることから始まったが、祖父は、釉薬のことよりも、土味、形、作行き、特に高台の削りに、非常に厳しくうるさかった。 
兎角、釉薬研究に陥りがちな青磁の世界! 以来、私はこの祖父の教えを、ひたすら、守っているつもりである。
[青磁の「色」は、釉薬を通した、土の味を見る]が、祖父の教えであったと、振り返っている。
ただ、憧れの対象が、南宋官窯、汝窯と、揺れ動いているが、最近、龍泉窯の中に、それにも勝るようなタイプのものを作っていた窯が、近年の窯跡調査で、確認されてきたようである。
今回の展覧会(愛知県陶磁資料館)のように、伝世品と窯跡資料を、照らし合わした企画により、ますます、龍泉窯の奥の深いところが、紹介されることは、青磁に憧れるひとりとして大変嬉しいことです。
また、一昨年、「南宋の青磁」という、龍泉窯タイプと、南宋官窯タイプを、比較する展覧会が開かれた。
会期中、親しくしている茶道の師匠より、小学生のお弟子さんを対象としたトークの依頼を受けた。その中で「どちらが好き?」という、アンケートをさせていただいた。
結果は、九十パーセト以上の小学生が、龍泉窯タイプの方を選んだ!!!!
日本人の「DNA」を、痛感する結果であった。 

砧、天龍寺、七官は、作品の位付けの分類である。私が、勉強をし始めたころ、「砧」の中でもうひとつ、位の上のタイプの一群を「修内司」と呼んでいた時代が有った。
近年の考古学的な見方では、「いつ、どこで生まれたか」を、優先する傾向が有る。
そのことも、大切なひとつですが、どのくらい魅力的であるかが、一番大切であると思っている。
さもないと、「今、ここで出来た作品が一番悪い」という、辛い論理になってしまう!
その上、砧、天龍寺、七官には、どこからどこまでという線引きが無い、曖昧だし、見る方それぞれの主観による。しかし、同じように魅力を共有するのである。
そこが凄いし、日本人独特の鑑賞法だと思う(古筆も)
七官の中にも、「無地七官」と呼ばれた、大変綺麗なものもある。
今回の展覧会タイトルは「日本人の愛した中国陶器 龍泉窯青磁展」と聞いている。
きっと、砧、天龍寺、七官(?)に加え、「修内司」と呼ばれていたタイプの作品も、展示されるものと、期待をしている一人です。

近年、「北宋汝窯」「南宋官窯」「南宋の青磁」そして、今回「龍泉窯青磁」展、さらに加えるならば、先秋から台湾の鶯歌で開かれている、「東亜青瓷的誕生興発展」という、古今東亜の青磁をテーマとした、大きな切り口の展覧会が開催中です。そして、台北故宮博物院では「乾隆皇帝的陶瓷品味」展に、先年の大観展にも勝る、沢山の青磁が並んでいます。
合わせ、青磁の企画が、これからも続いていくことを願っています。

(陶説707号 2012.2.1)

南宋龍泉窯

19歳試作

「一碗」から「笑苦火」へ
2011年 菊池寛実記念 智美術館 <個展>

川瀬 忍

1、古典に学ぶ
我が家の家風は、
憧れる古典に学ぶことから発していた。
祖父より与えられた砧青磁
貴公子のような南宋官窯
慈悲深き女神のような汝官窯
唐三彩、隋白磁、六朝の響銅へ
そして、戦国のシャープな切れ味
まさに、巧技を超えた龍山の作行き

思えば、沢山の師に、教えを仰いだ。

2、独自の、造形へ
師は、何を師としたのであろう
庭に咲く花
花を受ける葉
枝に生る実
海を泳ぐ魚
天空を揺らぐ光

自らの憧れに、悩む想いでもあった。

3、一 碗
昨秋、正式に展覧会の御依頼を頂き、制作を始めるが、新たなる出品は
「ただ、一碗に託す!」と、決意した。

その折々の、自らの意いを、素直に感じ、「かたち」とするが
徐々なる気持ちの変化とともに、「碗の膨らみ」が変わっていく。
ところが、ある時から、もう、意いが進まなくなってしまった。
全てが、同じ膨らみになってしまうのだ。

そこで、自らの意いを解き放し、彼の方を想った。すると
昨日は「○○まる」
今日は「○○まる」
明日は「○○まる」
明後日は「○○まる」と、色々な膨らみが生まれた。

全てが焼きあがるが、一碗に決め切れず、
「進まなくなったまる」、と「それぞれのまる」の候補を、伏せて委ねた。
当然「それぞれのまる」の中から、選ばれると思っていた。
ところが、結果は何故か前者であった。

「にんまる」と命名した。

ちょっと悲しいが、まさに、にんまりである。

しかし、それは茶碗ではなく、もう、水下(建水)となっていた。

そして、・・・・・へ

4、笑苦火(えくぼ)
「にんまる」に、にんまり北叟笑んだ。
その、報いなのか、焼成に悩み苦しんだ。

火の神様が釉薬に与えた、ほんの可愛い「えくぼ」である

そういえば
私にも、与えてくれていた。

2011年 菊池寛実記念 智美術館 <個展>『川瀬忍の青磁 天青から 静かなる青へ』 に寄せて


   作品集へ

雨過天青
2010年 陶説(691)寄稿

川瀬 忍

この数年、中国青磁の展覧会が続いている。特に近年、窯跡の研究が進み、幻とされていたものが現実を帯び、 「ものはら(廃棄場)」が見つかりつつある。中国陶磁の魅力に憧れる一人として、大変嬉しいのだが、作り手でもある私にとっては、 全てが暴かれてしまうことは、悲しみでもある 。

そのような中、新装なった根津美術館で、伝世品を中心とした青磁の展覧会が開かれる。

 陶家に生まれ、当たり前に、この世界に入ってしまった私に、祖父(初代竹春)から最初に与えられた指示が、龍泉窯青磁の袴腰香炉を習う事であった。 祖父の参考品である、この袴腰香炉は、大変作行きの厳しいもので、ただ、焼成温度が上がりすぎてしまった為、足が曲がり、へたってしまっている。しかし、口作り、肩と足の稜線は、まさに、袴の襞の折れ線を見るようで、大疵ではあるが陶家の参考品としては、一級品である。

「仕事」に厳しかった祖父に認めてもらおうと、一生懸命に、そのシャープな作行きを意識した。
その事が、その後の私自身の作品制作に大変影響したし、今でも、時折、祖父から譲り受けた、その袴腰香炉を出して、眺めている。

 そんな、祖父から与えられた勉強をしているなか、上野の東京国立博物館で、横河コレクションの「南宋官窯の鉢」に出会った。祖父からは、「青磁は砧が一番」と教えられていたが、二十歳前の若造には、この鉢の方が“位は上”に見えた。釉調、高台の削り、ゆったりと立ち上がる腰のライン、口作り、そして、後日、手に取る機会を得るが、手取りも、ホァッと、背筋が伸びる錯覚を感じるのだ。

祖父に、内緒で色見テストをして見つかり、「こんな焼きそこないは、やめろ!」と叱られた。(開入が入ってしまった色見は、砧を一番としている祖父にとっては、時代の下がったものと思ったのだろう)。ただ【かたち】を習い始めた頃には、もう「やめろ」とは言われなくなっていた。

 南宋官窯を勉強するには、台北の故宮博物院へ行くのが一番である。 御後援頂いた方から、故宮博物院への手配を頂き、二十代前半には毎年伺った。圧倒される質と、作品の多さに、嬉しく、毎日、同じ展示室に通っていた。ただ、隣の展示室(今と違い、南宋官窯だけの部屋があった)にある、南宋官窯とは、まったく趣を異にしている十点ほどの青磁が気になった。 疲れてくると、そちらの部屋に行って、その青磁を眺めていた。それが、「汝官窯」(その当時の名称)である。

南宋官窯とちがって、そのものから発するような迫力は少なく、作品自身からの表面的な主張は静かに控えている。
そして、見ていると、こちらがその魅力のなかに、吸い込まれていくような気がしてくるのである。

二十代後半に、友人の父上が故宮の院長さんと大変親しい関係と知り、その友人と二人で、私的な立場で伺った。
その折、スナップ写真(フラッシュ撮影)を撮ることを許され、帰国後、その写真を見て驚いた。
汝官窯の作品は、ハレーションをおこしていないのだ。(自作のテストピースはおこしていた。スナップ参照) このことが、見る人を吸い込んでしまう魅力のひとつなのであろう。

南宋官窯は、存在感がはっきりして、胸を張って、威風堂々とした貴公子のようだ。
汝官窯は、その魅力に憧れる人にのみ、そっと、微笑み、温かく迎えてくださるような、慈悲深き女性に思えた。

最近は、古典に習う事よりも、自らの想いを優先しているが、そんな魅力が自作にも醸し出されればと、願い続けている。

 貴公子といえば、大変お世話になった梅澤記念館のご先代様を偲ぶお茶事にお招きを受けた折であった。 その日は朝から、小雨が降り、生憎の空模様でした。 鑑賞陶器も取り合わされて、気持ちよくほろ酔い気分、中立ちのあとの後座には、南宋官窯の砧形の花入れが床間にひとつ置きに飾られ、瀬戸黒の茶碗で濃茶を頂いた。至福のときであったが、その瞬間、朝からの小雨も上がり、障子越しに傾きかけた夕陽が差し込んできた。みるみる、床の花入れの釉調が美しくなってきた。
広間に移るため、貴賓口の障子が開けられた。もう黙っていられず、失礼を省みず、拝見の所望をしてしまった。花(申し訳ないが記憶が確かでない)は外され、水を空けて下さった。なかば、陽が差し込んだ畳の上で拝見させていただき、こんな贅沢が出来る喜びを、ご席主様と大自然に感謝いたしました。
ひょっとして、このような貴重な体験をさせていただいたのは、恐れ多くも、乾隆帝以来なのかもしれないと・・・。

まさに、『雨過天青』。
雨が上がり、澄みきる数時間前の湿潤なうるおいに満ちた気を通して見る「青」であった。

(陶説691号  2010.10.1)

これからの茶道具
2010年 江戸千家東京不白会夏季講演会

川瀬 忍

本日は、お招き頂き、皆様の前でお話をさせていただくことを大変光栄に存じます。
長野さんとは、私が20代の頃からのお付き合いさせて頂いておりますが、お茶というよりも、お酒のご縁でした。お互い、古典に関心を持ちながら、今、ものを作るという立場が近く、親しくさせていただいております。

私は、中国の青磁の魅力に憧れ、青磁を作っております。 そして、お茶にかかわる作品も、かなりの割合で作らせて頂いております。

ただ、今日のテーマでございます、「これからの茶道具」ということを、ことさら、意識して制作は致しておりません。
と、申し上げますのは、私の作品制作は、その時折の、私自身が自らの思いで、作陶しております。
ですから、その作品が茶道具として叶っているかは、皆様がご覧になって、使えるか否か決めていただくものと思っております。
要するに、茶道具を作るのは作家ですが、見立てるのは皆様であられます。

そんなわけですが、出来たら、皆様に使っていただきたいとも、願っておりますので、今日はその自らの思いを語らせていただき、そんな思いで作ったのなら、使ってやろうかと、皆様にご賛同いただけたら嬉しく、存じます。

まず、私がこの焼き物の世界に入りましたのは、不純なのですが、祖父からの家業であったということです。
強制はされませんでしたが、暗黙の重圧はありました。

そんな中、18歳の時、祖父から預かり、これに負けないようなものを作ってみろといわれたものが、この(2)袴腰の香炉です。
この袴腰をよく見てください。口作り(3)口アップ、足の稜線、極めて作行きのするどいものです(4)稜線アップ。ただ、残念ですが大疵ものです(5)画底。逆に、そのおかげで我が家に、残っているのだと思います。(6)画底アップ 青磁に入る、きっかけとなりました。(7)龍泉窯の砧青磁です。

ここで、中国の青磁について、お話いたしますが、お茶の世界では青磁を (8)「砧、天竜寺、七官」と分類なさっています。これは、あくまでも位の順位づけです。砧が一番とされます。

ただ、鑑賞陶器の世界では、青磁の焼き物でも、(9)越州窯、耀州窯 汝窯、南宋官窯、龍泉窯のように、窯別に分類しております。

私も、祖父の教えのように位の一番高いとされる「龍泉窯の砧青磁」から入りました。
皆様も、きっと、先生から砧青磁が一番上であると、教わっておられると存じます。
でも、この東博の、(10)横河コレクションの南宋官窯の鉢を見て下さい。腰のラインがゆった張具合です。手に取ると驚くほど軽いです。 この南宋官窯の方が、もうひとつ位が上に見え、憧れました。(11)南宋官窯(砧よりもうひとつ位が上) (12)安宅さんの八角、(13)梅澤さんの砧形、(14)根津さん大内筒、海外では、(15)デビットさんの花入れ、 (16)大英の下蕪、(17)フリアーの砧形などを、習うことに挑戦しておりました。

そして、もっと、沢山の南宋官窯の作品を見るために、台北の故宮博物院へ通いました。

その当時、故宮では、図録というものがなく、必死に見たような気がします。(皆様も展覧会図録はないものとして、ご覧になると、凄く、頭に残るものです)

しかし、故宮博物院で、南宋官窯を勉強に来たのだが、隣の部屋にあった、南宋官窯にはない、
静かで、控えめで、温かく、柔らかく、見る人を吸い込んでいくような青磁
の一群がありました。 その焼き物が、(18)水仙盆 (19)汝窯、(20)洗、(21)洗、(22)輪花承盤、(23)楕円洗、(24)瓶 のようなものです。

先年、その特別展がありましたので、ご覧になられた方も、いらっしゃると思います。

その後、何度も、故宮博物院には足を運び、あの汝窯の魅力である「触ったら、温かそうで、押したら、へこみそうな柔らかさ」感じました。
自作にも、そんな雰囲気が出せたらいいなあと、憧れておりました。

収蔵庫内にも入れていただく機会にも恵まれました。(25)拝見、

この写真をご覧になってください、20代の私です。
いや、私が手にとっている花入れをよ~く見てください。先ほどの汝窯です。下にあるのは私のテストピースです。
違うでしょ!!肉眼で見ると、かなり近くなっていると思っていたのですが、帰国後この写真を見て気付くのですが、汝官窯はフラッシュの光を吸収するのです。
私のテストピースはハレーションを起こしています。
このことが、汝窯の魅力のひとつである、見る人を吸い込んでしまうのではないでしょうか

当時の院長、将院長さん (26)将院長 と、汝官窯の魅力について語った折、字のごとく、(27)汝の字は、「さんずい」に女ですね、将に「水も滴るいい女性」とお互いに相槌を打ったことがありました。

また、あちらで、お世話になった、博物院の顧問の方には、
「そんなに、汝窯に憧れているだったら、お嫁さんは中国人を持たねば、あのようなもの出来ないよ!」
「次回来るときまでに探しておくから」とまで、いわれました。
そのとき、私は、今の奥さんと、もう内心、決めていました。
ですから、結婚するまでの間、暫くは、台北に行けなかったんです。
あの時、あちらの方の意見を素直に聞いていれば、今、もっと、ましな作品が出来たのかもと後悔しています。

まあ、お嫁さんは日本人になってしまいましたが、あの魅力を再現するにはどうしたらいいのか!と思い続けておりました。
当たり前のことなのですが、不可能だと、気が付きました。

それは、まず、時代が違う!!これは、タイムマシンでもなければ、無理です。それでは、「あの憧れるものが出来たときには、陶工は何を見て作っていたのだろう?」 「当然、その前の時代のものです。だったら、その宋の前、五代、唐時代の文物を見て、それに浸ろう!」
「その唐の文物に浸っているうちに、これが出来た時は???」
という具合に「段々と、古いものに関心が向いて行きました」(28)中国の歴史、宋、五代、、、、
「だったら、人類が最初に作った造形物は、何からイメージしたのだろう」
「何だと思いますか?」 (29)自然の造形

「当然、人が作ったものではないものです。  自然のものですね!!
そうなんです、自然界が作ったものなのです
その最初に気が付くのが、このカラーの花です。(30)カラーの花
そして、イメージした花入れです。(31カ)ラーの花入

ここまでくるのに15年かかりました。

そして、このあたりから、あの憧れの汝窯の魅力のひとつである、温かく、柔らかな雰囲気を表現するのに、釉薬も大切だが、形を持って試みようと思いはじめておりました。

その形を作る造形ですが、私は粘土を以って、形を作っております。
そして、粘土の特性を生かすことが使命だと思っています。
でしたら、粘土の持っている、他の工芸にはない素材的特長は何かと、考えました。
皆さん、何だと思われますか??
粘土は(32)「押したらへこむ」ということです。

まとめますと、
温かさを求めるに、自然界の有機物から、造形のヒントをもらい。
柔らかさを求めるのに、粘土の可塑性を生かしていく。
という、作陶姿勢が見えてきました。


カラーのハート型の次に、
ふと、庭にある秋海棠の葉を見て(33)秋海棠の葉、左右が非対称であることに、気が付きました。 これが、そのイメージの鉢です。(34)非対称の鉢

これは、エイです。(35)エイの泳ぐ姿
子供と、水族館に行った折、あの優雅に泳ぐマンタの姿を見て、思い立ちました。ただ、私は轆轤を持って、表現するので、菱形でなく、円形になってしまいました(36)エイの平瓶。後日、丸いエイはアマゾンにいると知り、熱帯魚屋さんたちの現地視察に同行させてもらいアマゾンまで行ってきました。(37)エイのモビール

これもアマゾンでの体験からですが、(38)鶴汀1
迷路のような湿地帯を小さなボートで、何日も走り回りましたが、いたるところに、何をしているのか、じっと、動かない大きな水鳥が沢山生息しておりました。(39)鶴汀2休んでいるのか、魚を狙っているのか判りませんでしたが、そんな風景を心象しました作品です。(40)鶴汀3

これは有機物ではありませんが、自然現象のオーロラです。(41)オーロラの画像、(42)オーロラのアップ イメージ作品はこちらです。(43)オーロラの花入れ
北欧のサンタクロースで有名なラプランドへ写真家に同行し、二週間ほど滞在しましたが、オーロラを体験できたのは最後の2日間だけでした。(44)オーロラの合成作品

(45)人鳥1これは、ペンギンからです。
南極へ見に行く計画でしたが、親爺が健康を害し急遽、断念しました。すると、面白いもので、あの歩く姿にのめりこみました。(46)人鳥2

ペンギンを、漢字で書くと(47)「人鳥」と書くこと、皆さんご存知ですか?
私も、取り組んでいる中で、知ったのでしたが、なるほどと思いました。決して、鳥人ではありません。(48)人鳥3

先程、申し上げましたが、粘土の持つ特徴のひとつである「可塑性」それを、表現しようと、輪花から始まり、ここまで来ましたが、全て、器形の上部というか、口辺を曲げたり、巻き込んだり、したものです。
(49)水指1これは器形の中心部の胴を叩いて曲げ、作った造形です。(50)水指2、(51)有蓋壷 轆轤で挽いて、一旦削ります。そのあと、土に水分を加えることによって、粘土の可塑性は蘇ります。削り込んだ面取りとは違い、暖かな柔らかい表現となります。(52)五角徳利これは徳利ですが、土の厚みが一定で、見かけより沢山入ります。(53)五角徳利上から酒飲み用徳利です。

(54)モンコウの壷これは、器形の、一番下を同じような技法で、叩いて、造形したものです。(55)モンコウの壷

(56)三足香炉これも同じ技法ですが、轆轤を挽いて、すぐに、巻き込んで造形します。

この技法は3000年前の中国、西周時代にありました。(57)灰陶のレキ灰陶のレキを眺めている内に、技法の痕跡が見つかり、(58)灰陶のレキ裏、(59)底、(60)底アップ、技法を再現しました。
三つ足のものを作るのに、一般的には、胴と足を別々に作り途中の工程で、ジョイントする方法をとっていましたが、まず、(61)~(68)レキの工程8カット というわけです。

3000年ぶりに私が復活しと、自負しております。
そんなことよりも、この技法で作りますと、胴と足のラインがひとつとなって、流れるような造形が可能なのです。
足を長くアレンジしたものが、これです。(69)永い三つ足香炉
そして、逆に短くしました。(70)低い三つ足香炉

ただ、ここまで、40年近く、縁だ、胴だ、足だと、グニャグニャ曲げて、粘土の持つ可塑性を追い求めて参りました。

その後、(71)「そんなこと、何もしないで、可塑性を表現できないかと悩みました。(72)大鉢、(73)鎬鉢 それが、静碗となづけた、茶碗です。(74).(75).(76).(77).茶碗4カット

そして、この(78)曲線表現をも捨て、直線だけで、(79)経筒粘土の可塑性を表現しようとも試みました。その個展作品です。(80).(81).(82).筒3カット (83).(84)外焔筒2カット

ここまで、やってみましたら、また、戻ってしまいました。
というより、(85)実 この実と出合ったのです。
なんだか、ご存知ですか?
以前、長野さんが、我が家に遊びにこられた時、お見せしたのです。ブロンズと間違えられ、六朝時代の砂張と勘違いなさったみたいでした。「どこで、手に入れた!!?」と聞かれました。

実際は(86)実は房このように沢山ついています。
桐の実です。

一旦轆轤成形をして削る作業後、水分を与え、今度は、曲げたり、叩くのではなく、カットをし、可塑性を利用して、開いたのです。(87)~(91)妖青5カット
そして、轆轤成形ですと、乾燥、焼成で、戻ろうとする力が加わり捩れます。その捩れることを、敢えて利用したものがこれです。

そして、今取り組んでいるのが、この蓮です。(92)蓮の花と葉
花でなく葉っぱから触発されました。(93)輪葉の鉢
まったく、規則性のないランダムな輪花です。  これが、大変難しいのです。

蓮の葉っぱを観察して、ある程度の約束はあるようですが、同じものはありません。ですから、どのような形にしてもOK、「なんでもあり」の世界と思って取り組みましたが、なかなか、姿のいい「うねり」は表現できません。まして、見る角度によって(94).(95).(96).輪葉の鉢3カットまったく、表情を変えます。輪花でなく「輪葉」なんて、名前は付けましたが、なかなか、いい形と思えるものが取れません。規則性のあるものの方が、たやすいように感じております。

このように、粋がって、ひとりよがりになって、作ったり。
迷い、悩み、ふらつきながら、悩んでおります。
ただ、先日、面識のない方より、メールを頂きました。
あなたの作品は、舐めたら甘く美味しそうに感じます。と書いてありました。
(97)舐めたら、甘く美味しそう
触れたら、温かそう
押したら、へこみそう

それより、一段上のような言葉に感じ、
自身の憧れている方向には、進んでいるかなと、嬉しくなりました。

これからも、このようなことを、繰り返しながら、その時々の想いを感じ、それを表現していきたく思っております。
そして、そんなものが、これからの茶道具のひとつに加えていただけたら、嬉しく存じます。

本日は、有難うございました。

(平成22年6月13日  江戸東京博物館大ホールにて)

外焔
2009年 壺中居 個展

川瀬 忍

青瓷から瓊瓷へ(青から白へ)
そっと静かに、青を除きて、焔の囲みから解いてみる  忍


40年以上、青の青磁にひたすら、憧れ続けている。

そんななか、先年、常盤山文庫 中国陶磁研究会(独り言「テストピースの制作」を参照へ、青磁作家の立場として加わらせていただき、青磁の酸化焼成と還元焼成の違いを確認するために、テストピースの制作をおこなった。
今まで、ほとんど酸化焼成を試みてこなかったこともあり、私にとって、焼き上がったテストピースの色が大変新鮮に思えた。
特に、白い粘土に青磁釉を厚く施し、酸化焼成したものは、柔らかなアイボリーの色調となった。

その色調に見合った形を求めるうちに、その色調を、もっと、白く追求したくなった。

但し、永年の私の信条というか、『釉薬を通し、土の色をみる』という、私の青磁に対する「こだわり」を今回も変えたくなかった(白い釉薬で白色を表現することは避けた)

そこでまず、釉薬から、青の呈色金属の酸化鉄を取り除いた。そして、粘土にも、より白いものを捜し求めた。
真っ白な土に、鉄分を取り除いた厚い釉薬を施し、酸化焼成した、ねっとりと淡く、潤んだような白い色調は、やきものの肌というより、大理石、象牙、もっと言えば、「玉」のようにも、見える。

しかし、今まで、こだわっていたことが、今回、守れなくなった。
それは、表現する優先度合いの変化である。
今まで、形をより表現するために、粘土、釉薬を調整していたのだが、今回は。この釉調(釉薬を通して見る粘土)をより表現する形は何か!を求めた。

一見、白磁のようだが、今回の私の場合、青磁からの展開なので白磁とはしたくなかった。(白い青磁である)

そんな折、先日、遊びに来られた、旧知の中国陶磁研究家であられる中澤富士雄さんに、今回の作品を見ていただいたら、「瓊瓷(けいじ)」という名称を賜った。「瓊」とは美しい玉とのことである。

この釉調を生かした形を求めるに、造形という意識表現を限りなく省いた形が、相応しく思う。

口作りは、外に反らさない。(端反を省く)
高台は、作らない。(高台を省く)
と言う、内側へ内側へと(外に向かうものは省くことである)


これは、
粘土に於いても、白さを求める(不純物を省く)
釉薬に於いても、着色剤の金属を抜き取る(酸化鉄を省く)

というように、粘土、釉薬、造形に対し「省く」と言う、共通点が有ったのである。
まして、酸化焼成という、焔の囲みから解くということは、「焔を省く」でもあった。

個展「外焔」(2009年壺中居7回展)に寄せて

もし、出会っていなかったら
2009年 読売新聞寄稿

川瀬 忍

 

私は来年50歳代を卒業する。自身の宿命と覚悟で、18歳の時、祖父、父の許で、家業である「やきものや」の修行に入った。ジーンズはその宿命に悩んだ思い出と重なる。
以来40年、家の内においては、祖父、父への、反発と、自己の主張であった。ただ、一歩外に出てのお付き合いには、自我を強く表現することを控えた。それは、ほとんど全て目上の方々であったこと、そして、何よりも、そう意識するようになったのは、「北宋の汝官窯青磁」に出会ったことに起因する。
そもそも、20代前半に「南宋官窯青磁」の貴公子を思わせるような「かっこいい青磁」を探るために、台北の国立故宮博物院に繰り返し研究に通った。そのとき、となりの一室に、そっと静かに慎み深く、観るものを温かく迎えてくれる、慈悲深い高貴な女性を思わせるような「汝官窯青磁」に魅せられた。そして、その魅力に憧れ続けている。
その青磁は中国陶磁にある、強く存在感を表現するというより、観るものが意識を持たないと、見逃してしまいそうな美しさなのだ。
以来、私自身の心の中にあるそのような方に、ご覧いただけるような作品を作りたいと、思い続けている。でも、実現はしていない。
たぶん、ご覧に入れても、何もおっしゃらず、ただ、「にっこり、微笑んでくださる」だけであろう。
つまり、私自身が、その方の前へ、「この作品をお見せできるか、否か」を問うことによって、自身では迷う判断を、心の中にある方に委ねるのである。
このことにより、『中途半端な自我を強く主張した作品』は、恥ずかしく、見せられなくなり自重するようになる。
もし、そんな慈悲深い高貴な女性に出会っていなかったら、、、
「かっこいい貴公子」のまねごとに明け暮れていたであろう。

ジーンズフィフディ 応援宣言(2009年 読売新聞)に寄稿


個展「外焔」(2009年壺中居7回展)に寄せて

奥深き中国陶器磁の魅力
2009年 平凡社 別冊太陽(鼎談控え)

川瀬 忍

 

私も、中国陶器が、大好きなひとりです。
祖父、父が、中国明時代の やきものを研究、再現することを仕事としており、そこに生まれ、自然に中国陶磁には親しんでおりましたが、 そんな中で、最初に自分で買ったものは、二十歳の時でした。染付けの芙蓉手の皿でしたが、父の作品をお客様に届けし、代金を頂きました。
その帰りに、そのお金で、ある古美術店に立ち寄り、買ってしまったのです。帰宅後、貯金していた小遣いを下ろして、父に返すつもりでしたが、帰るなり、父にコテンパに叱られました。でも、祖父には、ほめてもらいました。今でも、記念に大事にしまってあります。
魅力に完全に、はまったのは、24歳の時、台北の故宮博物院で、汝官窯の作品を手に取らして頂いたときです。
あるきっかけで、青磁を始めますが、祖父からは「砧青磁が一番」と教えられ、祖父の参考品の中の「袴腰香炉」を与えられ、それを習うように指導されました。でも、私としては、上野の博物館にある横川コレクションの南宋官窯の鉢が好きで、目標としておりました。でも、祖父からは開入の入った青磁は「焼きそこない」だと、叱られていました。
そんなおり、ある方のお勧めで、南宋官窯の青磁を、勉強をするならと、台北の故宮博物院へ紹介の手はずをして頂き、伺ったのです。
当然、あの南宋官窯の圧倒される、魅力と数の多さに驚き、毎日伺って、その部屋の守衛さんとも、仲良くなるくらいでした。
でも、隣の部屋に、静かで、控えめで、暖かく、見る人を吸い込んでいくような青磁がありました。
それが“汝官窯”でした。
帰る前日に、手に取らせていただく機会を頂ましたが、ほとんど汝官窯の作品に絞らせて頂きました。
以後、今日まで、あの魅力に心ひかれております。

【第一部】中国陶磁の魅力

①形について  ただの土から、金にも勝る形(美術品)を作った
文明の発祥地では、やきものが自然現象的で発生しています。
それは、火を手にした人類が容器を作るために粘土見つけたことによります。文明の地は大きな大河が流れています。大きな河の岸には上流より細かな土が流れ、自然に水簸が行われ、堆積します。それが、粘土です。(私も、旅先で、その粘土を以て、記念の盃を作ったりしております)
その、粘土で作られた、生活道具が、祭器、明器へと、進む段階で、限りなく、造形を意識しながら何千年という歴史の流れに合わせ発達し続けたのが、中国陶器だと思います。
人類が持った形を作る素材で、最も適したものが粘土です。それを、一番有効に、使いこなしたのも、中国陶磁の歴史だと思います。
ただの土から、金にも勝る美術品を作りました。(金より勝るやきものは中国陶磁だけでは、ないか!?)

②色について 眼に見えるやきものの色とは 釉薬を通してみた、土のなのです。
そもそも、容器の水漏れ防止が結果的に、炭化の黒の発生となり、 自然釉というか、灰釉が、褐色、緑、青である青磁へと発展してきたのだと思います。
やきものの着色材は金属ですが、身近の酸化鉄が一番使われています。沢山入っていますと、黒、含有量少なくなるにつれ、茶色、オリーブグリーン、緑、青、水色、となります。まったくなくなると白です。
また、低火度ですと赤、黄色もみんな、酸化鉄が使われます。

ただ、釉薬は半透明のガラスのようなものです。
ですから、皆さんが見ているやきものの色とは、釉薬の色だけではなく釉薬を通してみた、土の色なのです。特に青磁の場合は、釉薬が同じであっても、土が違うと、まったく、印象の違う雰囲気になります。土が白く磁器の割合が多いと、より、明るくシャープな表現となり、土を黒くすると、重厚感がで、陶器質をますと、柔らかな、温かい表現となります。

また、開入が入ると、目の錯覚で、色が違って見えることもあります。

③文様、装飾について  やきものに衰退をもたらしたもの
装飾、やきものの中に、染付けが現れてからは、やきものの主眼が装飾へと移行します。そして、形で表現するということが、二の次になり、私にとっては、それまでの「やきもの」とは、違うものと思っています。
やきものは装飾をするためのキャンバスという意味合いになってしまったのです。
ですから、装飾は私が思うやきものに衰退をもたらしたものと、解釈しています。

【第二部】中国陶磁のすごさ

①歴史の古さ
古さというか、新しさというか、
大汶口の「鬹」

四川の耳付きの黒陶の造形
山東龍山の高脚杯のシャープさは現代でも通じる造形です。

②技術のレベル
やきものを作る作家として、当然のことですが、粘土という素材から形を作ります。粘土の持つ特徴というか、ほかの素材にない利点は、可塑性にあると、私は思っております。轆轤の発明により、益々、その利点が如何なく発展されて行き。粘土の持つ柔らかさを表現しています。
それが、ある時期から、装飾が重きをなすのと,相まって、技法的に違った方向へ進みます。私のこだわりからは離れます。

作陶する立場から技術面の凄さを感ずるのは、やはり、
山東龍山の黒陶卵殻高脚杯:
あの造形と土の薄さです。あれだけ薄いのに研磨してあります。
研磨は粘土に水分が残っていなくては出来ません。でも、水分が残っていると、まだ可塑性が残っていることとなり、あの器形と胎土の薄さでは、ゆがんで、壊れてしまいます。どのように作られたか。
薄手のものを得意としていますが、私の技術では出来ません。
それに、やきもの関係以外の方に見せて、手に取ってもらうと、ほとんどの方が、やきものとは思われません。
憧れて、再現の試みをしておりましたが、そのとき気が付いたのです。
現代だったら、プラスチックで作ればいいのだと、そのとき以来、諦めて、無駄な抵抗はやめることにしました。

ボーフラ(南瓜):
煎茶で使われるお湯を沸かすためのものですが、特に「南瓜」といわれているタイプのものは、紙より薄いくらいで、それも、轆轤を引きっぱなしなのです。削っていないのです。轆轤から外すときの指跡の痕跡も残っています。これもまた、とてつもない技術であります。

③伝播性 凄いこと
龍泉の大窯へ尋ねたときのエピソードですが、私は温州から、バスで   麗水経由で甌江に添って登って行き竜泉市に着く、大窯へは市内より三十キロ程南下し『大梅口』を左折して、水牛の糞とぬかるんだ土の混ざった泥んこ道を一時間程走り、車を降り徒歩で山を越えること三十分、ようやく、めざす『大窯』窯址へ、そんな今でも大変なところです。同行の友人に「僕のアトリエがここだったら買い付けに来てくれるか?」と尋ねたが、「絶対無理だよ!」と云われた。しかし、数百年前ここから焼き上がった作品が荷駄に乗せ、筏に積み、帆船を利用して遠く日本まで運ばれて来たのだ。いや、中東までにも伝わっている。凄いことだと思います。

それにもまして、この事実は、如何に原料、燃料を沢山必要としたか、即ち、失敗が限りなく多かったことを物語っています。すなわち、完成品を運ぶこと以上に原料、燃料を運ぶことのほうが、大変であったのです。でなかったら、もっと、交通利便性があるところに窯業地が出来たはずです。

【第三部】好みの中国陶磁五選

制作面からですと
山東龍山 黒陶卵殻高脚杯(個人蔵)
北宋 白磁鳳首瓶(大英博物館と個人蔵)
作品の魅力からですと
北宋 汝官窯(個人蔵)
南宋 官窯八角瓶(大阪東洋陶磁美術館)
明成化 染付瓜文鉢(大阪東洋陶磁美術館)

*ほかに、印象の深かった中国陶磁など
唐物茶入れ
ボーフラ
④エピソード
 台北 陳少尉さんからのお嫁さんのお世話
中国陶磁に憧れ、台北の故宮博物院へ最初に行ったのが、二十歳過ぎでした。その折、お世話になった当時の博物院顧問の陳少尉さんから、「本当に中国陶磁の魅力に迫りたいのか!?」と。尋ねられました。当然ながら、「はい」と答えたら、次回来るときには、「お嫁さんの世話をする。中国の女性を奥さんにしなくては、それは、成し遂げられない」といわれました。でも、今の奥さんは日本人です。
どうも、それがいけなかったようです。

やはり、お世話になった、当時の院長 将院長さんとの、憧れる汝官窯の釉薬の肌の話題で、 日本にはことわざで、「水もしたたる、いい女(男)」という表現があり、まさに字のごとく汝は「さんずいに女」だが、中国でもあるかとお尋ねしたら、やはり「あります」とお答えになりまして、汝官窯の魅力で意気投合しました。
それ以降、汝官窯の魅力を一口で語れといわれたら、このことを話しております。まさに的確に表現していると思いますし、納得してもらえます。

「まだ、その生まれた汝州の地は訪ねていませんが、いつか、両者に会いに行きたいです」「まだ、遅くないと思っています」 
→伊東先生はよく行かれておられますが???
(一ヶ月後、汝州を旅し、清涼寺、張公港の窯址を訪ねる)

汝官窯の魅力
優しく高雅な幽玄の美しさを感じさせる。 

中国の陶器と日本のそれを比べる場合、つめたい、かたい、と評するが、こと汝官窯には、この言葉は当てはまらないと思う。決して威張りもせず、心静かに自分を抑え内面から滲み出るものを表現しているのだ。力強さというものは表面からは感じられないが、だからといって弱いのではない。 

観る者をその魅力の中へ吸い込んでいく世界。
作品自らが魅力を誇示しようとしない世界

 雨過天青という言葉の青に、澄みきった青空をあてるが、私は澄みきる数時間前の湿潤なうるおいのある空気の中に見る「青」と思いたい。まさに汝官窯の釉調である。

押せばへこむのではないか、体温があるのではないか、だれもがパッと目を見張るようなものではなく、気を留めていないと見過ごしてしまうような存在。

汝官窯を見ると、いつもこの様なことを想うのである。そして、この“想い”に憧れながら、自分の心境をダブらせたいのである。

そして、汝官窯を、慈悲深い女性。

南宋官窯を、貴公子  と感じている。

奥深き中国陶磁の魅力、
(2009年、平凡社 別冊太陽 中国やきもの入門)鼎談控え

魅せられた青磁と自作
2009年 東洋陶磁学会講演原稿

川瀬 忍

ご紹介頂き、有難うございます。
まず、今日は、この東洋陶磁学会の研究会に発表する機会を頂き、大変有り難く、光栄に存じております。

今回、ここで、お話をするようにと、お電話を頂いた時、 まず、「私は何を話せばよろしいのですか?」とお尋ねしましたら。
「今、なぜ、あなたが、あのようなものを作っているのは、どうしてか? そのことを、語ってください」といわれました。 
瞬間、私は何かいけないような、悪いことでもしてきたのかなぁ と感じてしまいました。

そうなのです。私のような、作品を以て、自己表現をしている立場のものが、しゃべったら、「言い訳」「弁解」にしかならないと思うのです。

ですから、今日は思いっきり言い訳を語り、自己反省をするということで、わが身を振り返りたく存じます。
たまたま、私は、寅年、来年は還暦です。
原点に振り返ると、言うこともありますので、 よろしくお願い致します。

実は、東洋陶磁学会様には、私の祖父の代より、入会させて頂いておりました。それは、古陶磁、特に、中国古陶磁が好きだったことによるものでした。
ちなみに、東洋陶磁学会の「東洋陶磁」創刊号のトップページには、カラー図版で、唐三彩の鍑が掲載されて唐三彩の鍑 いることからも、判るように、古陶磁の学会であると思っていました。また、私も関心の深い、南宋官窯の論文が掲載されておりました。
覚えておられますか、昭和49年。35年前です。

ところが、数年前より、現代陶芸の世界にも、研究分野が広げられたことに、驚きを感じましたし、嬉しくも思いました。
ただ、現代陶芸の中のトップアート的なものに集中していたようで、いささか、不満でした。
私のような、温故知新的作家は、どっちつかずと思われていたのではと、思っておりました。
その辺は、まだ、ご依頼し頂いた方に何も伺っておりません。

さて、今日は、 私がこの世界に入ったことからお話させて頂き、憧れた古美術、そして、ひらめきを頂いた自然界の順にお話させていただき、最後に質問がございましたら、お受けいたします。
入門したのは、高校を出てすぐです。いいも、悪いも、たまたま、家業だったからです。

小学校時代から、小遣いがほしいために、お手伝いをしました。土砕き、スイヒ、土合わせなどです。ですから、土揉み程度は、その時点で出来ていましたから。いきなり、轆轤の生地つくりをさせられました。その当時、我が家では割烹食器を30個ないし50個を作っておりましたので、汲みだし、蓋向付、芙蓉手の皿、猪口、とほとんどが薄手の染付けや、赤絵でした。
今思うと、薄手のものを好むようになったのは、この時の、影響だったのではと、振り返っております。
ただ、生地作りばかりで、絵付けの方は、まったく、させてもらえませんでした。
そんな折、染付け釉薬の濃く溜まったところ(高台脇など)を見ると、青みが濃くなっています。
そこで、意識的に濃く掛けたものを作りました。
それを、祖父に見つかり、「お前!青磁が好きなのか?」といわれたので、とっさに、「ハイ」と答えたら、祖父の参考品の龍泉窯の袴腰の香炉をみせられ「これに負けないようなものを作ってみろ」とその香炉を与えられました。袴腰香炉 この袴腰をよく見てください。口作り口アップ、足の稜線足アップ、極めて作行きのするどいものです稜線アップ。ただ、残念ですが大疵ものです画底。逆に、そのおかげで我が家で、買えたのだと思います。画底アップ

これが、青磁の世界に入るきっかけでした。
当然ながら、まずは、テストピースの色見です。幸い我が家の窯は、月に2、3回火が入りましたので、 必ず、その窯の中に、テストピースを入れてさせてもらいました。
このことは、父も、大目に見てくれていたようでした。

まがいなりの土、釉薬が出来、鉢を作って、窯に入れさせてもらった中で、たまたま、開入の入ってしまったものがあり、意識的に色付けをしてみました。というより、東京国立博物館にある横川コレクション横川さんの鉢の南宋官窯の鉢の姿、釉薬に魅力を感じ初めてころだったのです。
ただ、祖父からは、「こんな、焼きそこないを何故作るのだ」と、叱られました。なるほど、祖父たちが勉強した時代、特にお茶方の人たちは「砧青磁」が最高峰で、南宋官窯タイプの青磁は清朝のコピーとの解釈のようでした。
まして、砧青磁の窯の焼きすぎには開入が、入ってします。

しかしながら、若き作家を目指す眼としては、南宋官窯の方が、位が上であるように思え、憧れておりました。安宅さんの八角、梅澤さんの砧形、根津さん大内筒、海外では、デビットさんの花入れ、大英の下蕪、フリアーの砧形などを、習うことに挑戦しておりました。

そんな折、台北の故宮博物院へ南宋官窯の勉強に行く機会に恵まれ、何日も通い続けました。その当時、図録というものが未だなく、必死になって、見たような気がします。(皆様も、絶対に展覧会図録は買わない方が言いと思います。いや、売り切れたと思うと、真剣に見るのではないでしょうか)
毎日通い、顔見知りになった、故宮博物院の展示室の守衛さんからは「何しに来た」「こんなものを作って、儲かるのか」と尋ねられた経験もあります。実は、私のポケットの中はテストピースの色見が沢山入っていて、こっそり隠すように見比べていたのです。

しかし、南宋官窯を勉強に来たのだが、隣の部屋にある、南宋官窯にはない、 静かで、控えめで、温かく、柔らかく、見る人を吸い込んでいくような青磁の一群あり。(その当時は沢山の展示物があった)魅力を感じておりました。

それが“汝官窯”です。水仙盆 洗、洗、輪花承盤、楕円洗、瓶

一昨年、その特別展がありました。皆さまも、ご覧になられたとれ思います。
ただ、あの時は、展示方法があのようであった為、私の思う汝官窯の魅力はまったく、感じられませんでした。とても、残念に思いました。

その後、何度も、故宮博物院には足を運び、「触ったら、温かそうで、押したら、へこみそうな柔らかさ」を体験させてもらい、自作にも、そんな雰囲気が出せたらいいなあと、憧れておりました。

収蔵庫内にも入れていただく機会にも恵まれました。拝見、

この写真をよくご覧になってください、20代の私です。
いや、私が手にとっている花入れを見てください。先ほどの汝官窯です。下にあるのは私のテストピースです。
違うでしょ!!肉眼で見ると、かなり近くなっていると思っていたのですが、帰国後この写真を見て気付くのですが、汝官窯はフラッシュの光を吸収するのです。
私のテストピースはハレーションを起こしています。
このことが、汝官窯の魅力のひとつである、見る人を吸い込んでしまうのではないでしょうか


最近思うのですが、
南宋官窯を「気品のある貴公子」

汝官窯を「慈悲深い女性というか観音様」
と呼んでいます。 如何でしょうか。


当時の院長、将院長さん 将院長 と、汝官窯の魅力は、字のごとく、汝は、「さんずい」に女ですね、将に「水も滴るいい女性」とお互いに相槌を打ったことがありました。

また、あちらで、お世話になった、東洋陶磁学会の会員でもあられた博物院の顧問の方には、 「そんなに、汝官窯に憧れているだったら、お嫁さんは中国人を持たねば、あのようなもの出来ないよ!」
「次回来るときまでに探しておくから」とまで、いわれました。
そのとき、私は、今の奥さんと、もう内心、決めていました。
ですから、結婚するまでの間、暫くは、台北に行けませんでした。
あの時、あちらの方の意見を素直に聞いていれば、今、もっと、ましな作品が出来たのかもと後悔しています。

まあ、お嫁さんは日本人になってしまいましたが、あの魅力を再現するにはどうしたらいいのか!と思い続けておりました。
当たり前のことなのですが、不可能だと、気が付きました。

それは、まず、時代が違う!!これは、タイムマシンでもなければ、無理です。それでは、「あの憧れるものが出来たときには、陶工は何を見て作っていたのだろう?」
「当然、その前の時代のものです。だったら、その前の時代、五代、唐時代の文物を見て、それに浸ろう!」
「その唐の文物に浸っているうちに、これが出来た時は???」
という具合に 「段々と、古いものに関心が向いて行きました」
「だったら、人類が最初に作った造形物は、何からイメージしたのだろう」
「何だと思いますか?」
「当然、人が作ったものではないものです。  自然のものですね!!」

その最初に気が付くのが、このカラーの花です。カラーの花

そして、イメージした花入れです。カラーの花入れ

ここまでくるのに15年かかりました。
でも、よくよく、考えますと、菱花式の鉢針木(台北では菱花式と呼んでいます )
の輪花のサイクルを、これは10ですが、6,5.3定窯の鉢と少なくしてみてください。そして、1つにすると、ハートになるのです。
「粋がって、カラーのイメージなんていっていますが、究極の輪花だったのです」
思えば、修行時代に祥瑞のこの針木の皿針木の皿を沢山作らされたことがありました

このあたりから、あの憧れの汝官窯の魅力のひとつである、温かく、柔らかな雰囲気を表現するのに、釉薬も大切だが、形を持って試みようと思いはじめておりました。

温かさを求めるに、自然界の有機物から、造形のヒントをもらい。
柔らかさを求めるのに、粘土の可塑性を生かしていく。
という、作陶姿勢が見えてきました。
これは、今、振り返ると、理由付けするのであって、その時点では、ただただ、夢中で自身でも、気が付いていませんでしたが。

カラーのハート型の次に、 ふと、庭にある秋海棠の葉を見て秋海棠の葉、左右が非対称であることに、気が付きました。
これが、そのイメージの鉢です。非対称の鉢

こうなると、非対称のバリエーションで、かなりの形が表現できました。10景の皿(ハートから、4カット)


これは、エイです。エイの泳ぐ姿
子供と、水族館に行った折、あの優雅に泳ぐマンタの姿を見て、思い立ちました。ただ、私は轆轤を持って、表現するので、菱形でなく、円形になってしまいました。エイの平瓶 これをたまたま、個展に来られ、ご覧になった、動物で有名な、ムツゴロウさんが「お前は、どうして、円形のエイを知っているのだ?!」と質問されました。円形のエイはアマゾンと、東南アジアに少し生息しているだけだそうです。エイのモビール

その後、縁有って、アマゾン熱帯魚、現地視察ツアーに参加させてもらいました。熱帯魚屋さんの親爺さんと、息子のツアーで、マナウスまで、飛行機で23時間乗って行きました、アマゾン川では毎日クルージングでした。釣った魚は、「日本だったらどのくらいで売れるか?」なって皆さんお話をしておられましたが、私には、まったく、判らず、蚊帳の外で、冷たい飲み物をいただくだけでした。(朝と夕方は蚊帳の中に入りましたが)おまけにアマゾン川は濁っていて、大自然の中で生息しているエイの姿は、見ることは出来ませんでした。ただ、水が引いた砂地には大きな円形のくぼみがいくつもあり、これはエイが休息した跡であると教えられました。このご縁の延長で、我が家ではこの淡水エイを飼っております。名前は「まりちゃん」です。

これもアマゾンでの体験からですが、鶴汀1迷路のような湿地帯を小さなボートで、走り回りましたが、いたるところに、何をしているのか、じっと、動かない大きな水鳥が沢山生息しておりました。鶴汀2休んでいるのか、魚を狙っているのか判りませんでしたが、そんな風景を心象しました作品です。鶴汀3

これは有機物ではありませんが、自然現象のオーロラです。オーロラの画像、オーロラのアップ
イメージ作品はこちらです。オーロラの花入れ
親しくしている料理屋さんのカウンターで、オーロラの写真家と偶然お会いし、軽い気持ちで「今度の取材に連れて行ってくれ」とお話をしましたら、忘れたころ、「行かないか?」と誘われ、ただ、「条件がある。国際免許を取ること、旅行中は自炊であること」でした。北欧のサンタクロースで有名なラプランドです。二週間ほど滞在しましたが、オーロラを体験できたのは最後の2日間だけでした。
オーロラの合成作品
でも、待たされたことも、有ってか、感激でした。よく、夜空のカーテンと表現されますが、頭上真上に円径をなして体験すると、まさに、フレアースカートの真下にいるようです。そして、オーロラのたなびくようなエッジのラインはゆっくりヒラヒラと揺れながら、下方に下りてくるのです。
頭を上に向け、見とれていると、どうなるか想像して下さい。そのフレースカートの中心部に吸い込まれていくような錯覚になるのです。感激ですよ!!

人鳥1これは、ペンギンからです。
南極へ見に行く計画でしたが、親爺が健康を害し急遽、断念しました。すると、面白いもので、あの歩く姿にのめりこみました。人鳥2
ペンギンを、漢字で書くと「人鳥」と書くこと、皆さんご存知ですか?
私も、取り組んでいる中で、知ったのでしたが、なるほどと思いました。決して、鳥人ではありません。人鳥

先程、申し上げましたが、粘土の持つ特徴のひとつである「可塑性」それを、表現しようと、輪花から始まり、ここまで来ましたが、全て、器形の上部というか、口辺を曲げたり、巻き込んだり、したものです。

水指1これは器形の中心部の胴を叩いて曲げ、作った造形です。水指2、水指3轆轤で挽いて、一旦削ります。そのあと、土に水分を加えることによって、粘土の可塑性は蘇ります。削り込んだ面取りとは違い、暖かな柔らかい表現となります。5角徳利これは徳利ですが、土の厚みが一定で、見かけより沢山入ります。5角徳利上から酒飲み用徳利です。

捫扣の壷これは、器形の、一番下を同じような技法で、叩いて、造形したものです。捫扣の壷

3足香炉これも同じ技法ですが、轆轤を挽いて、すぐに、巻き込んで造形します。

この技法は3000年前の中国、西周時代にありました。灰陶の鬲灰陶の鬲を眺めている内に、技法の痕跡が見つかり、灰陶の鬲裏、底、底アップ、技法を再現しました。 三つ足のものを作るのに、一般的には、胴と足を別々に作り途中の工程で、ジョイントする方法をとっていましたが、まず、鬲の工程8カット というわけです。

3000年ぶりに私が復活しと、自負しております。
そんなことよりも、この技法で作りますと、胴と足のラインがひとつとなって、流れるような造形が可能なのです。
足を長くアレンジしたものが、これです。永い三つ足香炉、 そして、逆に短くしました。低い三つ足香炉

ただ、ここまで、40年近く、縁だ、胴だ、足だと、グニャグニャ曲げて、粘土の持つ可塑性を追い求めて参りました。

その後、「そんなこと、何もしないで、可塑性を表現できないかと、悩みました。大鉢、鎬鉢 それが、静碗となづけた、茶碗です。茶碗4カット

そして、この曲線表現をも捨て、直線だけで、経筒粘土の可塑性を表現しようとも試みました。その個展作品です。筒3カット 外焔筒2カット

ここまで、やってみましたら、また、戻ってしまいました。
というより、実 この実と出合ったのです。
なんだか、ご存知ですか?
実際は実の房このように沢山ついています。
桐の実です。

一旦轆轤成形をして削る作業後、水分を与え、曲げたり、叩くのではなく、今度は、カットを加え妖青ダイナミック。可塑性を利用して、開いたのです。妖青5カット そして、轆轤成形ですと、乾燥、焼成で、戻ろうとする力が加わり捩れます。その捩れることを、敢えて利用したものがこれです。妖青ネジレ
そして、今取り組んでいるのが、この蓮です。蓮の花と葉
花でなく葉っぱから触発されました。輪葉の鉢

まったく、規則性のないランダムな輪花です。  これが、大変難しいのです。

蓮の葉っぱを観察して、ある程度の約束はあるようですが、同じものはありません。ですから、どのような形にしてもOK、「なんでもあり」の世界と思って取り組みましたが、なかなか、姿のいい「うねり」は表現できません。まして、見る角度によって輪葉の鉢4カットまったく、表情を変えます。輪花でなく「輪葉」なんて、名前は付けましたが、なかなか、いい形と思えるものが取れません。規則性のあるものの方が、たやすいように感じております。

そして、始めに、輪花の究極サイクルが1だと、申し上げましたが、 その上にゼロサイクルの輪花があったのです。

このように、粋がって、ひとりよがりになって、作ったり。
迷い、悩み、ふらつきながら、悩んでおります。

ただ、先日、面識のない方より、メールを頂きました。
あなたの作品は、舐めたら甘く美味しそうに感じます。と書いてありました。

触れたら、温かそう
押したら、へこみそう

それより、ステップが一段上ったような言葉に感じ、 自身の憧れている方向には、進んでいるかなと、嬉しくなりました。

これからも、このようなことを、繰り返しながら、その時々の想いを感じ、それを表現していきたく思っております。

何か、いい足らないことが沢山有ったような気がします。
これから、御質問があったら、お聞きします。

ないようなので、来週からのNYでの個展のお知らせです。
本日は、有難うございました。

(東洋陶磁学会講演 於、東京国立近代美術館 2009年3月8日 原稿)

亡き弟からのメッセージ
2008年 タイムス 寄稿

川瀬 忍

 禍は重なるといわれるが、昨年の我が家はちょっと大変であった。
八月に弟を亡くし、その七七日法要の日に父が逝ってしまった。弟は数年前に大腸癌が見つかり、その時すでに、肝臓、肺にまで転移しており、物理的治療の段階を超えていた。投薬、放射線、漢方、温泉、等の治療を試み、一時は、持ち直し、このまま、病を抱えながらも、永生きしてくれると、信じた時もあった。
我が家は、祖父の代からの陶芸家である。私と弟は、祖父、父の元で、この道に入り、10数年前に弟は独立し、湯河原に窯を構え、私は、大磯にある父の窯を継ぐかたちとなった。その父は弟の独立後に、脳梗塞で倒れ、何度も、発作を繰り返し、闘病状態であった。そんななか、弟は娘ふたりを嫁がせ、張っていたものが途切れたのか、その後ひと月足らずで・・・。
「介護の父を残し、先に逝くなんて・・・・」
同業でもあった為、葬儀の裏方を手伝うことになるが、七七日法要で、親戚が集合したところに、父がお世話になっている病院から、緊急連絡が入り、家族みな、そのままの姿(喪服)で、駆け付けることとなった。 
「何で、こんな時に・・・・・、 弟は、淋しくて父を迎えに来たのか」
その後、雑務の流れに従わざるを得ない日々が続いて、先のことを思っても、「溜息」が出るだけであった。
そんなある日、永く続いた父の顔を見に行く習慣が無くなっていることにふと気が付いた。会いたい気持ちと義務とが、交錯する日々であもったが、もう、会えないのだ。いや、終わったのだ。
きっと、弟は辛かった自分の癌との闘いの中で、父を永く続いた闘病生活から解放させ「一緒に、ゆっくりしようよ」。そして、兄貴へは「永いこと、御苦労さんでした」と言いたかったのだろう。 今は、二人が、「静かに、私を見守っていてくれる」と、信じられるようになりました。

タイムス(2008年7月サン・ライフグループ)に寄稿

テストピースの制作
2007年 「米色青磁」に寄稿

川瀬 忍

 長谷部楽爾先生を中心とする常盤山文庫中国陶磁研究会の一員として、今回、常盤山文庫所蔵の米色青磁瓶や洗などを、ゆっくりと観察させていただく機会を得、また先生方の貴重なご意見をうかがうこともできた。私自身、中国官窯青磁に憧れてこの世界に入り、一時期、米色青磁の魅力に取り憑かれたこともあった作家としては、まさに至福の時であった。
 その米色青磁の米色が、意識して作られたものか、それとも偶然の産物であったのか。その議論は研究者にゆだねることとして、私自身、作り手としての興味が涌き出し、同じ胎土、釉薬のものが、焼成雰囲気で、どのように違うかを比較してみようと思った。
テストピースを作るために用意した材料は、今までに、たまたま私自身が使用していた中の胎土4種類と釉薬5種類で、それらを組合せ、まったく同じものを酸化と還元で焼成し、以下の三つをテーマとして比較してみた。

1.20種類の胎土と釉薬の組み合わせが、それぞれ酸化焼成と還元焼成でどのように違ってくるか〔酸化と還元の比較〕。

2.焼成が同じで、同じ胎土の場合、釉薬によってどのような違いが出るか〔図13を縦列で比較〕

3.また同じ焼成、同じ釉薬の場合、胎土によってどのように異なるか〔図13を横列で比較〕
その結果が図13に掲載したテストピースの一覧である。ただし、これはあくまでも私の日頃使っている材料をもとにしたテストなので、絶対的なものではなく、相対的な比較としてお考えいただきたい。

  最後にひとこと、作家として、釉薬を研究することは大変重要である。私自身も、ポケットにテストピースを入れ、博物館によく通ったものだ。ところが、あまりに魅力的な釉薬に憧れるあまり、知らぬうちに釉薬研究という魔物にはまってしまうという怖さもある。形を作るという、本来一番大事な、作家としての心構えを忘れてしまうのだ。研究者にとっても、歴史的作品を釉薬・胎土から研究するのは、より具体的で、わかりやすい方法であろう。しかし作家から見ると、釉薬・胎土の再現も大変むずかしいが、形を習うことのほうが、それにも増して困難なことである。このことを研究者の方々にもご理解いただきたいと思う。 

2007年 12月、常盤山文庫中国陶磁研究会 会報1 「米色青磁」に寄稿

安宅コレクション
2007年4月1日 陶説 (649) 寄稿

川瀬 忍

  私がこの世界に入って、中国陶磁の魅力に関心を持ちはじめたころ、ちょうど、安宅コレクションの展覧会が始まり、一般に公開されるようになった。以後、大阪の中ノ島に、東洋陶磁美術館として開館するまで、ほぼ毎年催されていたように思う。 その頃、私は青磁の勉強をするために、台北の故宮博物院へ、よく通っていた。汝官窯、南宋官窯、の魅力に浸るためには、そこが一番相応しかった(ロンドンのデビットコレクションは遠かった)。 それが、国内で、見ることが出来る様になったのだ。その上、哥窯、耀州窯、龍泉窯も見せてもらえる。そして、何より、凄いことは、それぞれのタイプのもっとも優れたランクのものをコレクションされているのだ。この展覧会には、毎回のように通わせていただいていた。今、その当時のだいぶ縁が擦れてしまった、表紙の用紙に共通性がある図録を拝見しながら、安宅コレクションの気品の高さと、コレクターの収集姿勢のひとつである「宮廷好み」をつくづくと感じる。 おりしも、昨年暮より、台北の故宮博物院では、【大観展】が開催され、焼物は汝官窯の特別展となっている。そして、その中に安宅コレクションの「初期高麗青磁」が、出品されている。 以前より、汝官窯と初期高麗青磁の関係には、深く関心があったが、(注:陶説629号44ページ) 今回、ましく、数十センチも離れていない間隔で、何の隔てもなく並んでいる。このような陳列方法は、今までかつて、なかったのではなかろうか。画期的だし、関係者の並々ならぬ英断を感じ、個人的にも、嬉しかった。 学術的には汝官窯の方が先行するものであるが、たまたま、今回、故宮博物院へ、ご一緒した、焼物好きの方々や、偶然、会場でお会いした古美術商に、それとなく「どちらが好きですか?」と尋ねてみた・・・・。(結果は、4対1であった)
両窯の制作された時期には、数年から20年の間隔があると聞いているが、距離は何千キロと離れている。 なのに、どうして、あのように近いのであろうか!そして、あのように迫っているのであろうか?いや、魅力的である。凌いでいるように思えるところもある。北宋の神宗・哲宗・徽宗の時代が両国関係の最盛期であり、宋朝が回賜として、高麗へ汝官窯の作品が贈られていたであろうことを、想像するのに充分である。(高麗伝世・汝官窯の作品が、きっと近い将来、見つかると、思っている)
中国でも、南宋に遷って、再興を試みているが、沈静的貴族性には、高麗青磁ほど、迫ってはいないようだ。
中国陶磁の魅力に憧れ、作陶を志すものにとって、このことは、不思議だし、制作する意欲を与えてくれた。
この、初期高麗青磁の、底知れない魅力的な凄さを、教えてくれたのが、安宅コレクションである。 あの、自然の光が入る宋時代のお部屋に入らせていただき、魅力に浸れる嬉しさと、憧れの偉大さを感じ、再度、高麗のお部屋へ回って、自身への作陶意欲を頂いてくることにしている。  

  (2007年3月2日 日本陶磁協会「陶説」へ寄稿 )

淡交会講演原稿抜粋
2005年 7月22日

川瀬 忍

1. では、どんな土でも、やきものは出来ますか?

はい、どんな土でも、形を作ることが出来れば、やきものに成ります。 唯、土の耐火度の問題があり、焼成する温度が、異なってきます。
文明の地には、大きな川がありましたね。川は自然に「水簸」してくれ一定の粒子の土が貯まります。 雨が降ると山にあった土が流れ出します、細かい粒子ほど、下流に流れて、堆積します。それが、粘土なんです。皆さんも川の流れの淀んでいるところに堆積した土を御覧になったことがあると思います。今度、探して下さい。取ってきたら、すぐ、粘土になります。そして、ビールを呑みながら、七輪で焼いてみて下さい。
ただ、このあたりの川の土では、七輪で焼いても、水には溶けませんが、水は漏ってしまいます。ですから、蓋置など、作ってみて下さい。 もし、その土が白かグレー色をしていたら、1200度の高温にも耐え、水も漏らない物が出来ます。私は、旅行をした時、フイルムのケースにそうゆう粘土を詰めて内緒で持ち帰ります。ちょうど一缶で、ぐい呑一個が作れ、それを焼いて、記念のお土産にしています。 以前、淡水エイの生態を観察するため、アマゾン川のクルージングに行った折は、河の両岸には、いたるところ、粘土だらけで、毎日、暇をもてあましておりましたから、甲板で、手練りの盃を作り、乾燥させて、持ち帰りました。
その後、水漏れするような土には、それを防ぐため、研磨することを人類は発見いたます。 まだ、水分の残るうちに、石などの硬いツルツルしたもので、表面を擦るんです。すると、土の粒子が、密着して、水漏れがとまります。これが、中国では、龍山黒陶、斉家、日本では、弥生土器がそれに当たります。

2. それでは、その青磁をはじめられた、きっかけは何ですか?

私の家では、祖父の時より、やきものを作っております。 祖父は、「染付け」を中心に「祥瑞」が得意でした。 父は、「赤絵」特に、「豆彩」を研究しております。
 そんな中に、私が修行に入ったのが、18歳のときでしたが、 「土もみ」は小遣い欲しさに、小学校を卒業する前に、覚えており。
ですから、「ロクロ挽き」を徹底的に教え込まれました。 そのころ、我が家では、高級料亭の食器のご依頼を受け、20とか、30、多いときで50ぐらいの仕事です。寸法、形を狂いなく合わさなくては成りません。これが今となっては、技術的な面で凄く、勉強になったと、感謝しています。 そのころ、父より「絵は許可が有るまでは絶対に書いてはならない」ときつく、いわれ、自分の作品などは、まったく、作らせてもらえませんでした。でも、欲が段々出始めたころ、「染付け」の釉薬が溜まって、濃くなっているところを見ると青いのに気が付きました。  「意識的に厚く掛けたら、青磁になる!」それが、きっかけなんです。そして、内緒で、青磁の色見を窯の端っこに、入れておりました。 そんな色見を、あるとき、祖父に見つかり、「お前、青磁がしたいか?」といわれ「はい!」と答えたら「祖父の参考品の中から、砧青磁の袴腰の香炉」を与えられ、これを「習う」ようにいわれました。
 父には、勝手なことして何かを作ったら、怒られましたが、祖父が、父に言ってくれたおかげで、その「砧青磁の袴腰の香炉」を研究することだけは許されました。父も、祖父が言ったことだし、仕方なかったんだと思います。でも、夜か、父の出掛けた、不在の時だけしか、そのことは、やれませんでした。
そこに、思い出の、その香炉を持参しましたので、後で、御覧下さい。

3. 青磁の研究はどのようになさったんですか?

私の場合は、やきものの学校に言ったわけでもなく、まったく独学です。まあ、見よう見まねで、基礎的なことは、家で知っておりました。ただ、勉強といえば、この世界に入ったら、やきものに絵は描かせてくれないんですが、大和絵の先生のところに入門させられたり、謡の稽古、習字の稽古、挙句は、「お茶の稽古」まで行かされ、まるで、花嫁修業みたいものでした。  今となっては、そのことが、作陶する以前の精神的なことで、非常に役立っていると思っており、感謝しております。  さて、本業の研究ですが、私の先生は、「宋時代の古典(古美術)」でした。我が家の窯はそんなに大きくありませんので、月に2回か3回、窯を焚いており。そこに、色見を入れるこが、第一歩でした。やきものは、焼いてみないと、結果がでません。繰り返し、繰り返し、一歩一歩ずつ、目的のものに近づける作業でした。その色見をポケットに入れ、博物館へ通いました。青磁の場合、同じ光線の状態で、比べないと、判らないんです。

4. 官窯青磁の一番沢山ある、博物館はどこですか?

台北の故宮博物院です。何度も、訪問させていただいておりますが。そんな中で、毎日、宋時代の青磁の部屋に入って、スケッチをしたり、色見を出して比べたりしていましたんで、警備のおじさんに見つかり、 「何してんだ」 「こうゆう物を作るために勉強しに来た」といったら、 「儲かるか?」と聞き返されました。
 その台北の故宮博物院へ訪問した時に、「汝官窯」という青磁に出会いしたんです。それまで、青磁とは、楷書で、硬くて、きちんとしたものと考えておりました。 ところが、「汝官窯」には、それに加え、「冷たいものでありながら、温かみがありそうなんです」「へこむはずないのに、柔らかそうに思え」、手を出して「触ってみたい」衝動を受けるんです。
「汝官窯」の「汝」という字は、「さんずい」に「女」なんですね ひとことでいうと、字の如く「水も滴る、いい女性」と解釈しています。 「さんずいの水」と「女」で「汝」なんですね。 台北の故宮博物院の当時、院長だった、将院長さんに、このことを、申しあげたら、笑って、中国も同じですと、意味が、通じました。
その、「汝官窯」のやきものは「繊細、優美で、巧みなる技を具備し、気品に満ちた格調高き姿」と憧れ、いつも、このように、申し上げています。 うまくいえませんが、中国の焼き物で、ひとつだけ、選べといわれたら、絶対「汝官窯」の青磁と、言います。「その中で」といわれたら、「破片でも満足です」と答えるでしょう。今回、その破片を持参いたしましたので、御覧ください。

5. .最近の忍さんの作品は、古典というよりも、新しい感覚のものが、多いようですが?

はい。宋時代の青磁に憧れ、習ううちに、どうしても、それには、叶わないということに気が付きました。何ぜだと、思われますか? それは、「時代です」「環境です」。憧れる宋の時代に、この身をおかないかぎり、だめなんです。でも、そんなこと、タイムマシンでもなければ、不可能です。そこで、少しでも、近づきたいと考えました。
「そんな、宋の時代には、どんな美術品が有ったんだろう?」と、 「それは、宋の時代以前の唐、五代のものです」そこで、唐、五代の美術品を見ることに心がけました。そして、「この唐、五代の物が出来た時には」何があったかと、次第に遡っていきました。それでは、「最初には何があったんだろう?」何でしょうか?
 それは、人の作ったものではない、自然です。 植物、動物、自然現象から、造形の触発を受けることが、より、美しいものを作る道である。 言い換えると「自分自身の内面に有る、自分自身でも気が付いていない造形を、引き出してくれるのが移り行く自然である」なんです。 そんな中、ふと、我が家の庭に咲いていた海宇(カラー)の花を見て、花入れが生まれました。また、秋海棠の葉っぱを見て、左右非対称の形の鉢が出来、海を泳ぐ、「エイ」の姿、オーロラーを見に、北欧のラップランドまでも行きました。最近では、蓮の花が蕾から膨らむ変化に、魅力を感じてます。

6. それで、忍さんの作品は、曲線的なんですね!

そうかもしれません。 自然界のものって、ほとんどが曲線です。水平線だって、大きく見たら、曲線ですね。  以前、個展の会場にお越し頂いた、初めてお会いいたした、素敵な女性から、「あなたは、女性のラインに関心がありますか?」と質問されたことがありました。とっさに、「有りません!」と答えましたが。にたっと笑われ「あなたは、潜在的に持ってるわよ!」と云われました。当たり前です。それがない男性はいませんよね。  そのような、曲線表現をするのに、「やきもの」は非常に適している素材です。
他の工芸にないやきものの特徴は、いくつか有りますが、何だと思いますか? 先ほど来、申しあげている、粘土で、形を作るということです。 水分を含んだ土が粘土です。粘土の、ほかの素材にない特徴のひとつが、「押せばへこむ」ということなんです。この、押したり、引っ張ったりできる粘土を、「活きた土」と昔から、陶工は言ってました。
 乾燥した土からは、この表現が出来ません。これを「死んだ土」といいます。 自分を表現することに、作陶という手段を選んだからには、この粘土の特徴のひとつである、押したり、へこませる、可能性を充分に生かすことが、私の義務でもあり特権でも有ると思ってます。 そして、このようにして、作ったものを窯に入れ、炎の中をくぐり、浄化やされ、焼かれたものは、厳しい形であっても、どこか、柔らかさがあり、冷たそうでありながら、どこか、温かみが、表現されると思っています。
これが、私の作陶における、もっとも、大切にしているところであり、 このことを「粘土の持つ、可塑性への限りない挑戦」と、いつも、念頭においております。

7. そんな中で、一番のご苦労は何ですか?

苦労というか、非健康的なことがあります。それは、窯出しなんです。よく、窯出しは「わくわく」「どきどき」楽しいと言われるでしょう。でも、私のような磁器の家の窯出しは、まったく、反対なんです。備前、信楽などの「土もの」の窯出しは、まず一番に、出した作品の、いいところを探すでしょう。
「どの面がいいかな! ここの景色がいいなあ! うまい具合に傾いたな!」など、プラス思考なんです。 でも、我が家では、「釉薬がちぢってなように? 黒ポッチがないように? 歪んでないように?」と欠点を、まず、探します。そして、何にもなかったら、ほっとします。マイナス思考なんです。 「わくわく」「どきどき」なんてことは、まったくないんです。
「ハラハラ」「ヒヤヒヤ」しながらの窯出しなんです。
「いかに自分が思っている理想に近づくかで、思ったよりよかった」なんてことはないんです。思ったより、悪かっただけの世界です。
そのような、あら捜しをしていますので、人間性もきっと、悪くなると思ってます。 焼き締めをなさっている友人に、このことをお話したら、 「忍さんのは、いいよ!簡単ジャン! 計算して、計算どうりに焼けばいいんだから」「こちらは、火にゆだねて、どうなるのか分からないんだよ!」 と言い返されました。
隣の芝生ではないですが、他人のことがよく、お互い見えるようです。 隣の芝生といえば、漆の作家が窯出しを見て「焼き物はいっぺんに沢山できるから、いいなあ」といいました。でも、違うんです!「何ヶ月の仕事をまとめて窯に入れます。ですから、窯出しの時に、いっぺんに出来たように」見えるだけなんです。
まして、最後の工程の窯で失敗したら、今まで一つ一つ積み上げたことは、全てパーです。
これを私は、野球に例え「9回の裏、逆転、さよならホームラン、負け」と言ってます。 こんなこと行ったら、叱られますが、漆の方は、少々傷が出ても、磨いで、また。塗れば元に戻りますでしょ。焼き物はどこで、失敗しても、だめです。そして、最後の最後に大変大きな「賭け」が、待っているいんです。それが、窯です。ですから、焼き物やさんは、窯を焚き終えた後、必ず、手を合わせますし、そして、合わせたくなるんです。 そんなわけで、逆算も出来ないんです。窯出して、初めて、作品なんです。
その代わり、焼いてしまったら、もうどうすることも出来ないんで、諦めと、開き直りが早いです。
日本画の友人がいますが、彼の奥様が、いっておられました。「個展搬入の前日まで筆を持っているんですよ」これで、終わりと、自分で決心が付けられないそうです。

8 それでは、ご自身の作品選定というか、やきものの見方はどうなさっていますか?

これは、祖父から、教わったことです。仕事を始めた18歳頃、祖父は夕方4時過ぎには、仕事を済ませ、晩酌です。父は6時まで仕事をしておりましたので、私は、祖父のお相手です。お相手と言っても、父が来るまで、祖父の前に正座し、祖父の昔話を聞きながら、徳利を持ってお酌をするんです。その折の話のひとつに、「やきものはなあ」と何度も、聞かされました。 「当たり前だが、目で見るんだ」 「そして、手に取ってみて、重さでなく、手取りを確かめろ」 「そうしながら、肌の感触を味わい、高台を想像しろ」
「その次に、品物を返して高台を見て、いいなァ、感激したら、お前は、無意識のうちに、自分の手の親指の腹で、そっと、撫でいるはずだ」
「そういうものが、いいもんなんだ!」 「茶碗」や「盃」などの口に当てるものは、必ず、口をつけてみろ」と言われました。
そして、酔った時は、この話には、必ず、落ちがあるんです、「焼き物はな! 異性と同じなんだぞ」といっていました。 私の個展の折の、作品選択方法ですが、作家はどうしても、自分の主観で作品を見てしまいます。苦労したり、失敗が多かったものは、可愛く見えて、甘くなります。また、その日の精神状態で、眼は変化します。
ですから、私は、私の心の中に、ある理想の人物を置いております。
そして、その方に「この作品を見せられるかどうか、反問してみます」このことにより、かなり、冷静に良し悪しが見れるようです。
これは、ちょっと、「恥ずかしいなァ」「叱られそうかなァ」と思うことが、客観的に作品を見ているのです。
ですから、その、自分の心の中にある人物が、より高貴で、厳しい方でないと、作品選定が甘くなってしまいます。
でも、厳しいだけでは、作家は育ちません。時には、おだてて下さり、その気にさせることも必要です。 反対に、思い上がったら、叱ってもらわないと、すぐに図に乗ります。
また、うまくいかないと、いじけます! 大変難しく、デリケートなんです。 いい鑑賞家と、めぐり合って、初めて、良い作家が育つんだと思ってます。
今日は、沢山の鑑賞家と、めぐり合って、これから、いい仕事が出来ると信じています。

追加、  黒、白の茶碗も、作っておられますね?

はい、実はこれは、「禍を転じて、福」にしようと、したものなんです。 青磁の場合、釉薬の濃度を濃くし、厚く掛けますので、どうしても、ふやけてしまい、ちぢりが出やすいのです。そうなってしまうと、作品としては、欠陥です。しかしながら、ちぢりは沢山出ます。このことに、大変悩まされており、窯出しが、ハラハラ ひやひや なんです。 そこで、この悩みから、開放されたく思い、ちぢっていてもいいもの、すなわち、「火間」を見せる作品を思い立ちました。これなら、窯の中で少々ちぢっても、火間が増えるだけで、かえって面白い景色になるかもしれません。 ハラハラ ひやひやから、開放され、窯出しが、すごく、健康的になりました。
「火間」とは、火の間と書きますが、釉薬が掛からなかったところのことです。釉薬が掛かっておらず、素地に、直接、炎が当たるから、そう呼んだんだと思います。
薬がけの行程も、楽しいです。左手に作品を持ち、右手の持った柄杓の勢いで、決まるんです。 ですから、そのときの、精神状態が高揚していると、派手に掛けたくなります。反対に、落ち込んでいたり、いじけていたりしている時は、地味に掛けてしまうんです。それと、左手の指二本で持ちますから、指跡も残します。 それと、何故、茶碗かといいますと、それまで、私は、茶碗は作っておりませんでした。青磁で茶碗を作りたいとは思っていましたが、あの時点では、まとめることが、出来なかったんです。
そのとき、黒、白で、あの火間と結びつきました。 僕の作品では、茶碗のほかに、盃と湯のみに有ります。 形を作る面でも、青磁と違い、自分の手の、掌を使い、クルクル回しながら作るんです。削りの工程も、青磁の場合は、外側を削りますが、この手のものは内側を削っております。
ですから、青磁の作品とは、まったく、正反対の気持ちで制作出来るんです。
青磁の仕事が、行き詰まったり、いやに成った時に、いや、このような仕事をしたい気持ちになった時に、試みております。

(淡交会講演原稿控え 2005.7.22 二ノ宮ラディアンにて)

高麗青磁素文蓮花形碗
2005年8月1日 陶説 (629) 寄稿

川瀬 忍

大好きなものは、沢山ございます。されど、
愛蔵されているものに対し・・・・。
ひとつ、我儘を云える関係の中に
「高麗青磁 素文 蓮花形碗」がございます。
オリジナルとされているものが、
中国に伝わっております。
しかし、作り手の立場から観ると、
どうみても、この高麗の方が先行するように
思えてならないのです。
「汝官窯の世界」に憧れ続けている作家ですが、
初期高麗青磁には、それにも勝る魅力を感じて、
仕方ないことがあります。
技術的な面の完成度に於いては、
当然のことながら、それには、かないません。
ただ、北宋の文化に憧れる過程のなかで、
より貴族性が高まり、深く静かで、典雅な、
繊細優美さに於いては、
本歌を凌いでいるようです。

(2005.6.18 陶説、「好きな焼物」へ 寄稿)

初代川瀬竹春
2004年8月16日 輪之内町原稿

川瀬 忍

(孫 陶芸家)



  「虎蔵」私はひょっとして、こんな名前になっていたかもしれない。色々あって、「忍」になった。経緯はさておき、私の名付け親は、祖父=『初代、川瀬竹春』である。 今になって思えば(当時は赤ちゃんだが)、この名前のおかげで、性格、行動、果ては、陶芸家としての「作行き」までもが影響したようである。「虎蔵」だったら、もうちょっと、いや、大いに今とは違う雰囲気のものを制作しただろう。人生の結果は出てないが、本人は「忍」でよかった!と感謝しております。 私が物心ついてからは、祖父は郷里(輪之内町)の近郊、大垣市に隠居(?)と称して暮らしていた。ただ、月のうち半分くらいは、神奈川県の大磯(祖父の長男=二代竹春が継いだ窯がある)に来て、仕事をしていた。その半月は、我が家は大変なことになる。それは、祖父は大変厳しく、頑固一徹で、私の両親は、ピリピリしていたことが、子供ながらに感じていた。ただ、孫にとっては、おじいちゃんが大磯に来てくれることは嬉しかった。祖父のご馳走のお下がりが貰えるからであった。また、朝「おはようございます」と部屋へ挨拶に行くと、甘いものを頂けた。 18歳の時、父のもとで、家業の修行に入った。その頃には、祖父も大磯に居を構え、父と共に三世帯での暮らしである。祖父の夕食は午後四時過ぎに始まるのだが、父は仕事があり、孫の私が祖父のお相手、といっても、祖父の前に正座し、徳利を持ってお酌をするのである。父が仕事を終え、食卓に付く6時までの2時間近くの間、祖父の盃の残量を見ながら、お酌をしながら、昔の苦労話、や「ものの見方」を教わった。たまに、「お前も一杯呑むか」と盃を渡され「酒は呑んでもいいが、呑まれるな」と頂いた。おかげで、仕事よりも、こっちの方が早く覚えたかもしれない。 何度も同じ話が繰り返されたが、「はい」と答え、聞かされた。その時は、「早く父が来ないか」と、この2時間がとても永く苦痛であった。今思うと、聞かされた沢山の話が、いくつも、脳裏に残り今日の自分が形成されたのだと思える。そんななか、一番残っていることは、「ものの見方」である。当然、最初は『眼で見る』次に『手取り』を感じ、返して『高台』を見る、納得できると、無意識のうちに親指の腹で高台を撫でたくなる。口をつけるものは、触れて見なさい。最後は「異性と同じなんだぞ!!」と酔っぱらって言っておりました。
今日まで、青磁を研究し続けられたのも、祖父のおかげです。修行に入った頃、父は絵を描くことを許してくれませんでしたし、勝手なことは出来ませんでした。 ひたすら、父の言われるまま、生地を作ることに専念させられておりましたが、ちょっと欲が出て、小さな鉢に釉薬を濃く掛けました。それを祖父に見つかり、「お前、青磁がしたいのか?」と聞かれ、「はい」と答えたら、祖父の参考品の中から、南宋時代、龍泉窯の『袴腰の香炉』を「これをお前に渡すから、負けないものを作ってみろ!」と預かりました。これが、青磁に入るきっかけだったのです。 父に対しても、この祖父が言ってくれた一言により、この研究だけは、許してもらえました。色味を繰り返し、何度も挑戦し、その都度、祖父に見てもらいましたが、釉薬の色よりも、『形』『手取り』そして『高台のヘラの切れ味』を、やかましく、言われ続けました。
とかく、焼き物を評する場合、表面的な視覚のみをもって、云々されがちですが、祖父はその先にあることを、絶えず、口癖のように言っておりました。
そんなことが、祖父が他界し20年以上が経った、最近、ようやく、わかってきたような気がしてまいりました。

(輪之内町(岐阜県)郷土史編纂へ 2004.8.16)

和様と唐様
2000年10月1日 陶説 (571) 寄稿

川瀬 忍

 三十年近く前、鎌倉山に別荘をお持ちの数奇者(故人)が初夏の一日お庭にある古藤を「藤の花を見る会」と称して、親しい友人をお招きになり園遊会を催された。(以後お亡くなりになるまで毎年開催された)
 模擬店の一つとして冷たい「そうめん」がふるまわれ、そうめん鉢として私の青磁輪花鉢を使って頂いた。青磁の色のもつ涼しさからの依頼だったと思う。
その頃の私(二十代前半)はもっぱら『官窯青磁』の魅力に憧れ、それに習うことに没頭していた。それも、魅力の中の「厳しさ」「シャープさ」に偏っていた。  宴も盛り上がりあちらこちらで声高な会話が聞こえてくるようになった。そんな中、一際興奮している者がいた。私の親父だ! 相手は『瀬津 巌』様だった。何が原因か知らぬが、酔っ払ったら絶対に引かない親父だ、放っとくしかない。ところが、しばらくして二人に呼ばれた。ことの発端は「輪花鉢」らしい。
『巌』様いわく 「こんなカチン、カチンな焼き物作るな」 「日本人だろ」 「こんな仕事してたら息が詰まちゃうぞ」
私は反論する気持ちは十二分にあったが、でも怖くて口に出せないでいた。 それを察していたのか、親父は「和物にはない中国陶磁の厳しい魅力を」『巌』様に説明、否、強引に説得しようとしていた。この論戦は平行線のまま決着はつかなかった。つくはずが無いことは判っていたが、取っ組み合いにならなかっただけでもよかった。この事件の後、 『巌』様からはお会いする度に 「なにやってる?」 「頑張りすぎるなよ」 「遊びに来いよ」
とお声を掛けていただいたが、これが大変である。 御存じの如く、『瀬津雅陶堂』さんに入るには、目に見えないバリアが幾重にもある。
日本橋、仲通り界隈の古美術店は皆そうだが、もっとも威圧を感じさせるお店ではないだろうか。 意を決し、 入口の階段をおそる恐る二段程登っていく、 随分先にある自動ドアがさァーと開く、 あと戻りすることも出来ない、 取り敢えず足を進める。 広い空間に吸い込まれるが、 大きな『地蔵菩薩』が見下ろしていらしゃる。
足が動かない、 何歩かあるけたとしても、 また、階段が待っている。 ここを登るにどんなに気合いがいるか。 ようするに『位負け』なのだ。
ようやく、受付の所にたどり着く、すると慈愛に満ちた素敵なお嬢さんが微笑んで下さる。私は心臓の鼓動を抑えるのが精一杯である。何度お伺いしても変わらない。
 そんな中で、ご自慢の「盃」が沢山入った鞄を抱え『見たいか?』と、おっしゃり、次々と箱から出して下さったことがあった。このような盃でお酒を飲んだら美味しそうだなと・理屈でか・・体でか・何となく知り始めていたころで、嬉しく拝見させていただいた。大変ご機嫌がよろしかったのか、『もっと、見たいだろ!』と鞄の中に手を入れられた。それは見せてもらいたいに決まっているが、「沢山見せていただいて、頭がパニックなので出直して来ます」と申し上げると『今なら見せてやるが後ではだめだ!』一喝。おかげで大変な贅沢をさせていただきました。そんな折も必ず、 『威張ってないね』 『優しいだろ』 『日本はすごいね』 そして最後に 『おまえは日本人だろ』 とに云われるのが常のようでした。
 中国鑑賞陶磁で拝見させていただいたのは唯一・成化・のものでした。中国鑑賞陶磁の中にまで『巌』様の『好み』は貫かれているようでした。
 親父とも、その後は親しくしていただき『瀬津雅陶堂』さんで企画された・酒器展・にもご依頼を受け、親父の作品のなかでは一番柔らかな作風の・伊呂恵・で出品させていただきました。  この夏、東京国立博物館の・平等院展・で『雲中供養菩薩』を拝観した。これが『巌』様が憧れてていらしゃる世界なんだろうなァ。中国大陸から伝わった文化が「飛鳥」「白鳳」「天平」と徐々に『和様化』され、その頂点が・平等院・の世界である『やさしく、やわらかな、優美で雅びなお姿とお顔』温かく見守ってくれそうで、そして、拝するもの自身をも素直な心にさせてくれる。  会場でご子息の『勲』様が我を忘れ、視とれていらしゃるお姿をお見かけした。しばらくしてから「この世界いいね」と声を掛けた。興奮しながらもやさしい眼でいらっしゃった。このことが忘れられずお話したく、数日後、お店に伺った。その折、『勲』様から唐時代の佐波理を見せて頂いた。それは厳しい形ではあるが「やさしく、やわらかなライン」であり、「正倉院」や「法隆寺」に伝わっているものよりも、優美さにおいては優っているように思え、流石と感じ入っていた。
 その数日後、お尊父上様の御訃報を耳にした。 あれだけ、雅びな世界に憧れ、その世界を実践なされた方である。
みえない五色の糸に導びかれ、きっと『雲中供養菩薩』に囲まれた、あの雅びな世界にいらしゃったものにちがいありません。
 一説によるとあの佐波理は『香』を入れる器とか  やすらかに  拝 

(陶説(571)寄稿 2000.10.1)

青磁 の魅力を探る
2000年9月9日 根津美術館講談社原稿抜粋

川瀬 忍

1 青磁の世界への、きっかけ

染め付けの袖薬の溜まったところが青かった。
 *18歳でこの仕事に入りましたが、
  「土もみ」はすでに、「こずかい」ほしさに覚えていました
 *「ろくろ」を教えこまれました。
  そして「絵付け」はさせてくれませんでした。
 *でも、自分のものを作りたいなあ、と思っていたとき。
  ふと、焼き上がった「染め付け」の高台部分の袖薬が溜まったところを見ると、青いのに気が付きました。
 *意識的に厚く掛けたら「青磁」になる(これがきっかけ)

 そんな「色見」を祖父が見て、「砧の袴腰の香炉」を与えられ、これを習う様に云われた

父には勝手なことして、何かを作ったら怒られましたが。祖父がいってくれたおかげで『袴腰の香炉』の研究することだけは、許されました。

父にしては祖父のいうことだし、仕方がなかったんだと思います。

今回の展覧会に出品されている「高麗の輪花の鉢」(32)は私にとって凄くご縁のあるものです。
20歳位のとき、根津美術館に伺って、この「鉢」を拝見して、『輪花』という「技法」を教わったのです。 この「技法」を取り入れて『輪花の鉢』を作り、 その後、わたしの作陶テーマのひとつとなっていった『輪花の変化』のスタートとなった原点の一つです。 

2 プロセス(袖薬)

  *私の場合、学校にいったわけでもなく、まったく独学です。
  先生は「古典」でした。
 *わが家の窯はそんなに大きくなかったので、月に2、3回炊きました。
  そこに「色見」を入れることが、第一歩でした。
 *やきものは、焼いてみないと結果は出ません。
   繰り返し繰り返し、一歩一歩、目的のものに近づける作業でした。
 *その「色見」をポケットに入れて、博物館へ入って、比べる。
   (同じ条件の光線で見ないと駄目)
 * 台北の故宮博物院によく行きましたが、宋時代の室で、親しくなったの警備のおじさんに見つかり、「なにしてんだ 」『こうゆうのを作ってんだ』「もうかるか」なんて云われたこともあった。

3 魅力

官窯青磁を勉強するために台北に行きました。
そのとき、数点の汝官窯を見せていただき、それまでは、青磁とは、やきものの「楷書」でかたく、きちんとしたものと、考えていましたが、 ところが、それに加えて、 冷たいものでありながら、暖かみがありそうで
へこむはずはないのに、柔らかく思え、
さわってみたい衝動をうけるやきものだったんです。

「ひとこと」で云うと、
字の如く『水も したたるいい女』と解釈しています。
台北の故宮の元院長の蒋さんに話したら、中国も同じですと意味が通じました。

繊細、優美で、巧みなる技を具備し、気品に満ちあふれた、格調高き姿

私の作品を、心の中にある徽宋皇帝の前にもって行けるか!

いかに、品格を崩さずして、己の造形を作るか!

うまくいえませんが、中国のやきものひとつだけやるから、選べといわれたら たぶん「汝官窯」と言うと思います。
そのなかで、といわれたら、破片でも、嬉しいです!

4 造形

自分自身の内面にある、自分自身でも気が付いていない造形を、「古典」や「移りゆく自然」が引き出してくれる。

浮かんできた造形が、品格あるものか、下品なものか、判別するために

  *自身の内に、畏敬の念を抱いた「古典」「自然」に、自身の作品を見せられるかどうか?

               ↓

  * 思いつきの「造形」が、如何に下品なものかを知ることが出来る!

(“鼎談・青磁の魅力を探る”原稿より抜粋  2000.9.9.根津美術館)

デビット・コレクション
1998年10月12日 読売新聞寄稿

川瀬 忍

  私が青磁の魅力にとりつかれるきっかけを与えてくれたひとつに、デイヴィット・コレクションの「南宋官窯下蕪形瓶」がある。
 今回、それにも勝る品格を持つ「汝官窯下蕪瓶」がやってくるという。日本であの気品に再開できるのだ。
デイビィット・コレクションを初めて訪れたのは、10年ほど前、古美術好きの友人と三人でロンドンに一週間滞在した折であった。
 大英博物館の裏玄関を抜けたところにある閑静な住宅街の中の建物。中に入るとデイビィット卿が集めた中国陶磁器がびっしりと並んでいる。「ところ狭し」という言葉は、このようなときに使うのだろう。中国陶磁にあこがれたり、研究しているものにとっては、このうえない陳列である。
 結局、滞在中に4日間、ここに通うことになった。 大英博物館でエジプトやオリエントの出土品を見ていると、何かがぐいぐいと迫ってくるようで疲れてしまう。
 しかし、デイビィット・コレクションの前に立つと陶磁美術の圧倒的な濃度にもかかわらず、圧迫される感じは全くない。押しつけがましさがない、とでも言うか、どこまでも、どこまでも、その美の中に引き込まれていく。見る者の意識と美しさが寄りそいあっていく。
 中国陶磁の歴史の中にはもっと存在感を放射するような作品も作られているが、コレクションにはその種のものは見当たらない。
 宮廷の人々の美しさへのあこがれが染み込んだ作品の数々。これらを収集したデイビィット卿の美意識もまた、作品群の中に溶け込んでいるように見える。

(1998.10.12 読売新聞 夕刊 「デイビィット・コレクション展」に寄稿)

宜興 丁蜀鎮
1998年 陶説 (549) 寄稿

川瀬 忍

この夏、縁あって同世代の陶芸家三人で、紫砂茶壷(紫泥急須)で名高い中国の宜興『丁蜀鎮』を尋ねることとなった。後述するがこの三人の友人関係は、第三者から見たらたぶん不可解に思われるだろう。今回の目的は宜興『丁蜀鎮』に現在残る最後の一基となってしまった、明時代の『龍窯』の保存と再興、それに現地の陶芸家との交流にあった。
 『上海』に入り今回お世話になる中国芸術研究院陶瓷創作研究室の「高振宇」氏の出迎えを受け、先ずは中国の大自然を味わいたく『黄山』に直行する。安徽省南部に位置する『黄山』はまさに中国「山水画」の名山である。今回はロープウエイで山頂近くにあるホテルに宿をとり、雲海に浮かび怪石を誇る『飛来石』まで三時間ほど登山をして、三人はそこに腰を降ろした。雲の流れにより刻々と変化する様は、まさに「天海」そのものであり、それに浮かぶ峰峰は『千変万化』、切り立った岩岩は『千巌万壑』、松の枝枝は『千姿万態』、何時間いや何日、居ても飽きることのない絶景である。古くより多くの画家が訪れたというが、画家でなくともこの山水の世界は人を限りなく「想像するという世界」に導いてくれる。目の前にある山を観ていても、雲の流れによりほんの数秒前と全く異なった山に見えてくるし、また、雲の向こうには? 霧の下には? どんな景色があるのだろうと目を凝らす。我々の作品もこんなふうに見えたらいいなぁ! と思い悩んだ。
 たっぷりと目のご馳走を頂いたあとは、口とお腹がすっかり飢えていることもあり『杭州』へ、旅行社扱いの食事は高くて量が多すぎる・・・・・、で今回は当地でお世話になる運転手さんに「ふだん友人と食べる所」という条件をだし、朝食以外は彼に案内して頂いた。『東坡肉』『トウミョウ』『カモのスープ』『龍井蝦仁』など美味しいものばかりで量もほどよく注文してくれ、嬉しいことに価格が桁ひとつ違うのだ。今回は甘党の友人もご一緒、夕食後は例のこってりと甘い御菓子を食べるべく店を変え、私は少しだがたっぷり口に運び、食べ残ったものもホテルへ。翌朝、抹茶のお菓子となるのだ。ホテルはもちろん「シャングリラ」とした。
 目も口もお腹も満足し、今回の目的である『宜興』へ向かう。途中『良渚』の博物館を拝観し、『玉』『黒陶』など古くささを全く感じさせない造形を沢山覧る。宜興『丁蜀鎮』に着き、早速今回この地でお世話になる「高」氏の義父であられる「徐 秀棠」先生を尋ねる。先生は『中国工芸美術大師』の称号を持つ陶芸家である。この宜興『丁蜀鎮』は、江蘇省宜興市の中心地より南へ十三キロメートル、東に『太湖』を望むところにあり。磁器の都『景徳鎮』に対し、『陶器の都』として、古くは新石器時代には「土器」戦国には「灰陶」その後には「古越磁」、現在も「やきもの」関連に暮らす人が殆どで、百軒以上の窯があるとのことだ。宜興紫砂茶壷(紫泥急須)を中心として、水がめ、植木鉢、今では建築資材までも生産しているという。
 早速、明時代の『龍窯』を御案内頂くがこれがびっくり、全長約五十メートルはある。同行の二人の方がこのようなタイプの窯は詳しいのでここでは譲るが、高さ、幅は人がやっと入れるくらい。外姿態は恐竜の骨格のようで、詰め口が数メートル毎にいくつもあり、窯詰め、窯出しが合理的構造になっている。二人は感心することしきりで、今度、日本で窯を築く時はこれを参考にしようなんて言っていた。また、焼成時間は三十時間と聞かされ驚いた。このように長い大きな窯をそんな短時間で焼き切ることが出来るのか、それに燃料は松材だが直径二、三センチメートル位の枝と松葉だけと説明されるが、これまた信じられなかった。これを信じてこの窯を使わせて頂くにしても、作品を窯一杯にするには三人だったら一年はたっぷり掛かるだろう。もっともっと大勢の参加者が必要だし、火を入れるのはかなり先のことになりそうである。  市内にある「宜興陶瓷博物館」には、印文の「灰陶」、「古越磁」などこの付近で出土したものが多数陳列されていた。また、この地の陶芸家の作品も沢山並んでいた。ほとんどが伝統的な「急須」だが、「急須」以外にも日本で今流行っている作家の亜流的な物までもあり、情報の早さには驚いた。
一旦、ホテルに戻り、夕刻「徐」先生のお迎えを受け夕食をご馳走になった後、御自宅にお伺いして「お茶」のお招きを頂く。立派な室内で家具も豪華で、居間にあったテレビはわが家の数倍もあるワイドテレビであった。なん煎か頂くが、この地のお茶はほろ酔い加減の私にとっても、香もよく、心地よい気持ちにさせてくれた。
 翌朝、当地の「急須」制作工程を拝見するが、ロクロは使用せず、手びねり、叩きによる伝統的技法には感心することしきりである。注ぎ口もヘラ一本で作り、研磨は水牛の角のスライス板である。「急須」の様な丸い形のものは当然ロクロ成形と思っていたし、手びねりであのように丸く作る技法は、私にとって驚き以上のものがあった。第一、『丁蜀鎮』にはロクロは一台もなかったということだ。今回、我々が訪問するということで急遽『景徳鎮』より二台取り揃えてもらったそうだ。このロクロを我々三人が使用することになるのだが、「徐」先生の工房のお弟子さん達十人程はロクロ成形を見ることはまったく初めてだそうで、熱心に目を注がれた。ところが、今回の三人、まったくロクロに対する考え方も、姿勢も、違う。中国の方からみれば日本人三人が来てこんなにてんでバラバラのロクロをすることに驚いていたようだ。最後の晩、このお弟子さん達を囲んで夕食を取ることとなったが、このことが話題となり、意見を聞くと『A氏は伝統的ロクロ』『B氏は現代的ロクロ』『C氏は優雅なロクロ』と評してくれた。たった四日間程のことで、この様に見抜いてくれたことには嬉しくもあり、流石と思った。その返しとしてA氏は、『B氏はエレキギターの演奏者』『C氏はバイオリンの演奏者』『私(A氏)は尺八の演奏者』と身振りを交え伝えたが、大爆笑となった(尺八は知っているのか?)。又、彼等にもロクロを伝授しようとA氏は教えにかかるが、流石土に慣れ親しんでいるせいか、ちょっとの間である程度のこつは覚えてくれたようだ。たぶん、我々が去った後この二台のロクロは取り合いになるのではなかろうか。
 さて、先の『龍窯』のことだが数年前までは、全てこのタイプの窯を使っていて沢山の窯が煙をはいていた。ところがガス窯、トンネル窯等の近代的な窯が入ってあっという間に『龍窯』は使われなくなった。成る程、この地の作品は『火色』『灰掛かり』と言うような窯の中の『炎』と云う日本人的こだわりは全く考えてなく、否、あってはいけないのでありガス窯等の近代的窯でロスも少なく安定性を優先され、『龍窯』で焼く意味合いがないそうだ。しかし、今回お世話いただいた「高」氏は日本に来て三年程陶芸の勉強をしたこともあり、この『龍窯』をどうしても保存したいとのことであった。
 アトリエにあった使い込んである「急須」の肌は仕事場にある窯から出たばかりの肌とは、どう見ても違いしっとりとしている。使い込んだ肌には魅力が感じられた。「徐」先生にこの違いをどう見ているかを尋ねると、これは全く我々と同じ考えで、使い込んだ肌を十分意識しているとのことであった。このことは大変嬉しかった。
 四日間ほどの滞在であったが、十人程いたお弟子さんの内に、自然と三人それぞれのアシスタントのような担当者が出来てしまった。それもA,B,Cそれぞれにぴったりの人柄であり、驚いたし面白かった。この三人は土をもって『よりよきもの』を作ろうとすることは同じだが、考え方、攻め方、表現方法全く異なった、否、相反する三人である。それぞれを認め合い、尊敬しながらも、互いの世界には全く入り込まないことも当然であり、唯、刺激を受けたいだけなのだ。今回は、互いの仕事振りを見せ合うこととなってしまったが、『土を愛し可愛がる人』『土から何かを引き出そうとする人』『土を自分のものにしたい人』三者三様であった。この癖のある三人を一緒に連れ出してくれたD氏へも、よく企画してくれたし感謝している。

日本陶磁協会「陶説」に寄稿(549号 1998.12.1)

中国江南の旅
1998年 陶説 (546~548) 寄稿

川瀬 忍

1. 黒胎青磁(陶説546号 1998.9.1)

先年、中国北方の窯址を視察した仲間達と今回は、淅江省、福建省にある窯址を尋ねることとなった。 龍泉の安福窯、大窯、渓口窯。浦城の半路窯、大口窯。水吉(建窯)の芦花坪窯、大路后門窯。平和の田坑窯、大龍窯。同安の汀渓窯。それに各地博物館を見学させて頂いた。
今回の出国はまったくスムーズで、上海経由、温州に着くが、前日に降ったという季節はずれの名残り雪に出迎えられた。甌江東河畔に沿ってバスにて麗水に向かうが、どこまでも続くメタセコイアの並木を抜け、畑には黄色い菜の花が満開であった。山岳部に入って両側の断崖には幾筋もの滝があり、雪解けで増水し、泡立って落ちる白い流れは山肌とのコントラストが印象的で目に鮮やかに入ってきた。麗水市内に入る手前開けた平野を望むところより、桃の花が咲きみだれ、まさに麗水は桃源の里のように思われた。 市内の南明賓館のレストランで昼食を頂くが、ここの料理は、まさに日本人の味覚にぴったりであった。塩味の加減、盛り付け具合には皆驚き、喜びを伝えると、料理長自ら挨拶に来られ、日本には来たことのない女性であった。どうしてこんなに我々の感覚と同じなのかと尋ねると、「心を込めてお持てなしをする」とご返事を頂く。
日本人的中華料理と別れ、バスは左折し甌江を渡りめざすは『龍泉』へ、今度は甌江を右に見て、またまた芽吹はじめたメタセコイアの並木を抜け、『云和』を過ぎるころから山岳道となる。峠を超え『安仁』へ入る、ここには明時代、成化年間に造られたという立派な屋根が付いた木造の橋(永和橋)を見学し『安福口』へ。バスを降り甌江支流に沿って歩くこと二十分程、今回最初の窯址である『淅江龍泉県ー安福龍泉窯址』へ到着する。ここの遺物は見た限りでは、元、明のもので日本で云う天龍寺青磁タイプで碗、高足碗が沢山のサヤなどの窯道具と共に見られた。もう一つ大きな峠を越えるとようやく龍泉市内にたどり着いた。
翌日、市内より三十キロ程南下し『大梅口』を左折して、水牛の糞と ぬかるんだ土の混ざった泥んこ道を一時間程走り、車を降り徒歩で山を越えること三十分、ようやく、めざす『大窯』窯址へ。ここは大きな盆地で斜面はいたるところ「ものはら」であった。北宋とされる刻花のものから、たっぷりときれいな青磁釉が厚く掛かった香炉、双魚の皿、鉢など砧青磁タイプのものが沢山見られた。さすが「龍泉窯」屈指の窯址であった。
 帰路、今回予定にはなかった『渓口窯』窯址をどうしても尋ねたく、無理をお願いした。まだ本格的な調査が済んでいないとのことで時間を制約されたが、思っていた通り(先年発掘報告があった)、数は少ないが官窯タイプ破片を数点見ることが出来た(砧青磁タイプの破片がほとんどだったが)。
薄手の皿、鉢で作りの極めて上手なものであったし。また、黒土で開片の入ったものは、杭州で最近見られる破片と極めて似ている。近年、鳳凰山山下で発見されたという『修内司官窯窯址』と合わせ、南宋官窯の問題はこれからも話題を呼ぶだろうし、研究が進むことを期待したい。龍泉市内に戻り龍泉青磁博物館を見学するが、『渓口窯窯址標本』の中には極めて高台の畳付きが薄いシャープな薄手の皿、香炉(?)などの黒胎の破片が沢山陳列されていた。 この龍泉市内でも個人の作家が何人かいるとのことで、一軒尋ねるが開片の二色入ったいわゆる「金糸鉄線」の哥窯タイプを狙っていらしたが、素地は厚く厳しさに欠けるものであった。また、市内のほかの店で見るものもほとんどがこのようなもので、近年、上海などで見るかなりうまくできた砧青磁の彷古のものはこの地ではなさそうである(一説によると『景徳鎮』産)。又、南宋官窯タイプの彷古のものは『蕭山』産であるとのこと。びっくりしたことに、この作業場には日本の著名な作家の「印」が押された作品が沢山あり、陶印までも見てしまった。交流の深さには驚いたが、いずれ日本でもこの作品を見る機会があるであろう。

2. 残留『建窯茶碗』の里帰り(陶説547号 1998.10.1)

  青磁の都である「龍泉」に別れを告げ、福建省への山越えである。
数日前に降った雨で危うく通行止めになるところであったが、「王坊」「八都」そして省境の「花橋」を無事越え福建省へ入る。
浦城市内手前を南下し『半路窯』へ、ここは珠光青磁タイプの猫掻き文様がある碗、黒釉のものが見られた。その数キロ北方にある青白磁で名高い『大口窯』を尋ねるが、ここも斜面全体「ものはら」であった。青白磁の経筒、水注、鉢、印花の合子、蓋物の破片が沢山あり、黒釉の小壷などの破片も見られた。その昔、この印花の合子や小さな蓋物は『景徳鎮』産の影青と思っていたが、この地ものである。また、伏焼きの青白磁の鉢は『景徳鎮』と同じ「リングとちん」を用い、窯詰めの方法も全く同様であった。よく考えて見れば『景徳鎮』とは省こそ異なるが距離的にはかなり近いところなのだ。
翌日、「水吉」に入り天目の里である『建窯』窯址へたどり着く、今回は『芦花坪窯』と『大路后門窯』の二箇所たっぷりと時間を頂き見学することが出来た。ここはものすごい量の「ものはら」で、山全体が茶碗の破片と窯道具のサヤ、ハマで出来ているようであったが、この地よりあの美しい『曜 変天目』『油滴天目』がはるばる海を越えてきたかと感慨に耽りながらも、ほとんどが『兎亳盞』であった。高台内に『供御』『王』の刻字があるもの、又その刻字がハマに写っているものがいくつか見ることが出来た。茶碗ひとつひとつが入るサヤにも力強いロクロ目がたったものがあり、ひっくり返してしばらく眺めていたが、そばにいた同行の林氏はこの「ものはら」の上にどっしりと胡座をかき『天目茶碗』にブランディーをそそぎ美味しそうに飲んでいた。羨ましくなりとなりに座り一杯ご馳走になったが、全く無疵の茶碗である。こんな完品私は見なかったと尋ねると、先年日本で手に入れた『建窯』産の茶碗で今回生まれ故郷の「ふるさとの大地」へ数百年ぶりの里帰りの為にこの茶碗を持ってきたとおっしゃった。心がけが違い偉いなアと敬服していたが、バスに戻ってもまだ大切に抱えていた、やっぱり惜しくなったのか?。いい裂で仕立てた仕服に包み持ち帰っていた。彼曰く、「たっぷりと窯跡にブランディーを飲んでもらいお礼をし、お別れを告げ、これからも大切に可愛がる」とのこと、成程! 建陽市内に入り『建陽市博物館』を訪問する。中国では天目茶碗の中で『鷓鴣斑』のものが一番珍重されているとのことで自慢に解説されるが、日本人感覚ではあまり魅力のあるものには思えなかった。又、最近日本にも沢山持ち込まれている、上から見ただけでは本歌と見間違いそうな『建窯』の彷古のものは「南平」産とのことであった。
この地と別れ、今回唯一の観光である「武夷山」へ足を延ばし、一日ゆっくり船下りや香高い烏龍茶を飲んで、ひと休みとなった。

3.武夷山 九曲渓 二曲 玉女出浴「玉女峰」(陶説548号1998.11.1)

のんびりとゆったりとした流れに身をまかせ、奇石、美石を眺めながらの『武夷山 九曲渓 筏下り』は、「龍泉窯」「建窯」の興奮を冷まし、疲れを癒してくれた一日であった。
 空路、厦門へ、気温は30度を越え真夏のような陽射しにたまりかね、今回持ち合わせてこなかった半袖シャツを購入し着替える。フエリーで対岸の島「鼓波嶼」へ渡るが、沈む夕陽が印象的で町の佇まい何故か「香港」を思い起こさせた。夕食は今回の目玉である『カブトガニ』、日本では絶対に食することの出来ないものである、甲羅の直径40センチ位もある大きなものがテーブルに運ばれた時には目を見張った。ひっくり返して身を取り出すが、大きさの割に食べるところはほんの少し、味のほうは期待が大き過ぎたのか...........。唯、甲羅はメンバーのひとりが干して仮面にするとのことで記念に頂くが、うまく持ち返ったかどうかは不明である。この「厦門」市内にも「香港」に倣っているのか、古道具屋がいくつもあり、ホテル近くには沢山の店が入ったビルがあった。「青磁」「天目」「白磁」「染付」は当然ながら、北方の「耀州窯」「定窯」「磁州窯」それに近年日本にも将来されている四川省の「黒陶」までも見られ、流通の広さには驚いた。
 翌日、「漳州」「靖城」「南靖」を抜け「平和県」へ、『平和県博物館』を尋ね近年話題を呼んでいる『素三彩(日本でいう「交趾」)』『彩絵瓷(呉須赤絵)』の資料を拝見する。「鴨」「阿古陀」「亀」「蕗のとう」まさに、『型物交趾香合』であり、上絵の施してない素地、そして「型(土型)」までも何点か見ることが出来た。この交趾香合の窯趾である『田坑窯』は、「南勝」より歩くこと1時間ほど、山のふところの渓流の上にあり、全員汗だくの行軍であった。今は埋め戻してあり畑になっていたが、畦には小さな破片が沢山見ることが出来た。『型物交趾香合』以外にも『素三彩』の皿の素地には大変作の良い刻文があり、「景徳鎮」明時代中期の『素三彩』(黄地緑彩タイプ)にかなり近い作行のものである。彩色が施された 小さな破片には「紫」「黄」「緑」「トルコブルー」の顔料が見られた。又、大変珍しい破片だが『素三彩』の素地が刻文ではなく「呉須」らしき顔料(黒色)で花鳥図を描き「釉薬」を掛けずに焼成したものがひとつ見られた。先年、『皇帝の磁器』展(1995年)に出品されたトルコブルーの掛かった龍文の大きな合子の破片(出品番号188、189、190)タイプの半製品ではないかと皆で話題となったが、平和県博物館 高館長も初見とのことで不思議がっておられたが、この上に交趾の上釉(トルコブルー)を掛ければまさにあの大きな合子と技法的には全く同じである。
 『呉須赤絵』の窯趾である『五賽窯』では、『大龍窯』『二龍窯』を尋ねたが、ここも山の斜面全体が破片と窯道具で一杯で大きな窯壁も見られた。
所謂、日本で云う『呉須赤絵』の素地で「玉取獅子」以外にも「福」「寿」「魁」「正」の 「呉須」で書いた字がある破片がいくつも見られ、『タンパン呉須』で有名な「赤壁の賦」の染付版の大きな破片も見ることが出来た。唯、残念なことに上絵の入っているものはこの二つの窯では全く見当たらず 『呉須赤絵』の素地を焼く窯であったようだ。後刻知るのだが、上絵の入っているものが発見されているところはすぐとなりの窯『花仔楼窯』『碗窯山窯』とのことであった。
 この平和県に在る『交趾窯趾』と『呉須赤絵窯趾』は距離にすると10キロ程しか離れておらず驚いた。又、交趾香合と全く同じ形で白磁、染付のものがあるが(台牛、柘榴)日本の茶人は『呉須香合』と呼んでいる。以前から同地域からの産物ではないかと云われてきたがこのことが立証された。
 厦門に戻り、翌日は同安の『汀渓窯』へ、ここは現在ダムが出来てほとんど水没しているとの情報であったが、運のいいことに雨不足で水がほとんど引いており、湖畔にはおびただしい量の青磁の破片と窯道具があり、ほんの少し白磁も見られた。青磁はいわゆる『珠光青磁』で内外に猫掻きのような刻文があるタイプであった。唯、寸法的には茶碗より一回り大きいものが殆どであった。
 昨秋「越州窯」の上林湖(堤が出来て昔より何倍も大きくなっている)を尋ねたときも水が引いていた。この春、再度尋ねた友人は満杯の上林湖にがっかりしたそうだ。運、不運はつきものだが窯趾視察の折りは渇水期を狙うことをお勧めします。それと、草の繁る前であることも当然です。
ところで、淅江省、福建省の窯趾(上林湖の越州窯、龍泉窯、大口窯、建窯、汀渓窯など)のほとんどが山の斜面のかなり高いところにある。当然ながら作陶する作業場は水の便の良いところにあるはずである、窯詰めの時は運ぶだけでもご苦労を察する。それに反し、北方の窯趾(耀州窯、臨汝窯、釣窯、磁州窯、定窯)は平地にあった。『景徳鎮』は中間的である。これは窯の構造(斜面を利用する登窯タイプと単独形式の丸窯タイプ)からくることだが立地条件による影響のことでもうひとつ、北も南も窯趾というところは必ずといっていいほどに今思うと交通の便の悪いところにある。出来上がった作品を消費地に運ぶためにどうしてもっと交通の便の良いところに窯を造らなかったのだろうか。今回の一番の難所であった龍泉の大窯視察中、同行の友人に「僕のアトリエがここだったら買い付けに来てくれるか?」と尋ねたが、「無理だよ!」と云われた。しかし、数百年前ここから焼き上がった作品を荷駄に乗せ、筏に積み、帆船を利用して遠く日本まで運ばれて来たのだ。この事実は如何に原料、燃料を沢山必要としたか、即ち、失敗が限りなく多かったことを物語っているのだ。今の私は原料、燃料の便で『大磯』に住んでいるのではない。「トラックさえ入れば何処でも出来る」なんて云ったこともあった。これは如何に失敗が少ないか、否、失敗を少なくしているのだ(成功したと思い込んでいるだけかもしれない)。もっと、もっと自分に厳しく律しなくてはならないと反省させられた。このことが、何度かにわたり中国のさまざまの窯趾を視察させて頂いたことによる収穫だった。

(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1998)

上林湖、景徳鎮の旅
1998年 陶説 (540.541) 寄稿

川瀬 忍

1、ひそく (陶説546号 1998.3.1)

 平安の昔から伝わる、この「ひそく」という言葉から響く感覚は、位も高く、雅びで静かな佇まいを与えてくれる。「なんという美しい湖だ、山静にして太古の如く、……」で始まる、米内山康夫氏著「支那風土記」の中の『上林湖』は、まさに「ひそく」の生まれた地に、ぴったりの名文に思えてならなかった。その憧れている「上林湖」を訪ねないかと誘われたのが、個展(平成九年「白玉尖」)直前の夏であった。是非とも思い、日程を個展後に合わせて頂いた。そもそも今回の旅行を企画して下さったのは、「たましん歴史・美術館」副館長の中澤富士雄氏であり、その親しい友人である「浦上蒼穹堂」主人の浦上満氏であった。こういう形の組み合わせで『もの』を見ることは、大変厳しく、勉強になる。また、楽しみもある。「学識研究者」と「古美術を商う方」それに「物作り手」。同じ「もの」を見ても、『美』を解かそうとする気持ちは同じでありながら、微妙に違う角度から視るために、会話の中で参考になることが沢山ある。これはお互いにそう思っているはずだ。これに「コレクター」が加わればもっといいのかも。そういうわけで、この三人の旅となった(途中、中澤氏の窯跡視察を取材する出版社の編集長が加わったが)。そして、自由な行動をしたい目的もあり、現地では通訳と車のみの手配とした。そのためには前もっての資料集めには大変な苦労があったが、すべて中澤氏に煩わせてしまった。その資料と下調べのお陰で大変貴重な体験をすることが出来たのだが、その前にもうひとつ、今回のたびの大きな山がある。
 中国入国後直ちに、新装なった「上海博物館」を訪ねた。入ってびっくり、高級ホテルを思わす四階まで吹き抜けのロビー、その各階四面に展示室がある豪勢な内装であった(展示物については先の陶説第五二五号で弓場氏が紹介済み)。副館長の汪慶正氏不在のため、陶瓷研究部の周麗麗女史が面会してくだされ、『清涼寺・汝官窯発見』の経緯と成果についてお話を伺う。その上、貴重な収集資料も手に取らせて戴く光栄を得ることができた。また、数日後杭州より戻ったおり、汪慶王副館長様のお招きで昼食をもご馳走になった。それは、中澤氏の日夜の研究成果をお認めになっている証であり、お心配りに感謝するとともに、私共はお陰で大変なおこぼれを頂戴できたことは、中澤氏にお礼を述べなくてはいけない。先年、鄭州市「河南省文物考古研究所」で見せて頂いた『清涼寺・汝官窯』資料と合わせ、発表報告されている資料は見たことになるが、『汝官窯窯跡』の研究はもっともっと本格的な調査を期待したい。ともあれ、中国陶磁それも宋時代の青磁に憧れる私にとっては、第一日目にこんな貴重な体験ができたことはこの上なく嬉しく、これからの旅の期待に胸膨らみ、杭州への車中の人となりました。
 ノンストップで二時間半、杭州駅改修工事中のため東杭州駅で下車。西湖の北湖畔にあるシャングリラホテルへ、チェックイン後、当然ながら真っ直ぐに郊外の八卦田にある「南宋官窯博物館」へ伺うが、期待が大き過ぎたせいもあったのか、これといった展示物もなくがっかりする。窯跡も拝見させて頂くが我々にはあまり参考にらなかった。その代わり、孤山にある「浙江省博物館」には『古越磁』『越州窯』『南宋官窯』の初見の優品がかなり沢山あり、閉館時間と過ぎても熱心に視ている我々三人に呆れたのか一時間近くオーバーしても、監視のおばさんに文句ひとついわれず、かえってこちらが恐縮しお礼を述べて退館する。そんなおりも、にこにこしながらのお顔が印象的でこちらも嬉しかった。
 夕食は今回唯一予約を入れた西湖々畔「楼外楼」にてガイドさんも誘い、『乞食鳥』『むきエビ』『スッポン』『草魚』等で観光客らしく夕げを済ませ、心は明日の期待とほろ酔いかげんで、柳がそよぐ湖畔の風が気持ちよく、プラタナスの枯れ葉舞う遊歩道を抜け、シャングリラホテルへ。(この旧館は是非お勧めします)
 朝起きると「西湖」は霧の湖であった。早々に朝食を済ませ、めざすは「上林湖」へ。濃霧のため高速道路は閉鎖、交通渋滞の一般道路を暴走族なみの運転で走り抜け、途中、「紹興」手前で霧も晴れ高速道路に乗り「余姚」で降り、稲作発祥の地とされる『河母渡遺跡』へ立ち寄り「慈渓」に入る。昼食時間を無駄にしたくなく、まず市内でスーパーマーケットを探し、パンと牛乳を買い込みリュックに詰め、「上林湖」を目指すが、現地の人に尋ねても、尋ねても知っている人がいない。ようやく、輪タクのおじさんが教えてくれるがこんな道でいいのか、車一台がやっと通る人家の間を抜け、山間を回りようやく湖らしき堤を発見。登ってみてびっくり、ここまで来れば三人で窯跡を探す計画であったのだ。ところが、上野の「不忍の池」位のつもりでいた湖は、幅は狭いが見渡すところ、湖畔を一周するだけでも数日を要す大きな湖であった。どうしよう……、途方にくれる我々の目の前の湖畔に木造の小さな舟が係留されているではないか、船頭らしきおばちゃん達が退屈そうにしていた。試しにそのおばちゃん達に破片の写真を見せ、こういう所を知っているかと尋ねると、一人が案内してよいと返事をくれる。舟賃の交渉をして半日貸し切る形でエンジンを掛けるが、これがなかなかで何回めかの挑戦でようやく船出となる。舟底を見ると水が滲みている、無事帰れるのか不安であったがリュックには食料が沢山詰めてあるし(こういう時食べ物は勇気を与えてくれる)、豊かな気持ちになりのんびりと「上林湖」を湖中より眺める。この松の林に囲まれた静かな湖の佇まいは、米内山康夫氏の名文に譲り(是非読んでください)、湖中には我々の舟だけで、この憧れの湖を独占したような気持ちに浸っている嬉しさは感慨無量であった。船は幅狭い湖の北の端より舟出し、南の奥に着け下船すると、岸には破片が沢山散らばっていた。夢中で指さしながら、これは!あれは!と興奮していると、おばちゃんがこんな所より松林の奥にと案内される。ここより米内山氏とは少し異なってくる、青磁の破片が大量に散らばっているところは同じだが、土匪もいなかったし物売りもこなかった。運も良かったのか、はっきりとした窯跡をも発見した。まず第一に破片の量と共にサヤや窯道具が異常に沢山転がっている、これは絶対窯跡と直感した。注意深く眺めると大きな木が数メートル幅で生えてない斜面があった。その辺りの枯れ草を取り土を除いてみると、焼け焦げた窯の内壁が見付かった。その延長を辿ってみると、何箇所にも焼け焦げた内壁があり窯床らしき所も有った。およそ幅三メートル、長さは十メートル以上あった。後刻、中澤氏より詳しい報告がなされると思うが、三人の通称名『NC三・四窯』(今回の中国旅行番号に因み)と命名した。この窯跡の破片はほとんど素紋の碗であり、いわゆる玉壁高台で、低く幅の広い高台から直線的に立ち上がる浅い朝顔形の碗であった。釉調のきれいな破片は『ひそく』を思い浮かべるオリーブグリーンから青に近く澄みきった発色をしていた。たぶん、晩唐の窯跡ではないかと三人で想像した。サヤは「M」の字型で、サヤに品物を入れてから摘むのではなく、品物をのせてサヤを被せ、その上に叉、品物をのせてサヤを被せる形態であった。昼食を採るのも、煙草を吸うのも忘れ、破片を見て、カメラのシャッターを押していました。初めはそばにいたおばちゃんも呆れてどこかに行ってしまったが、暫くして迎えにきてくれた。中澤氏が湖の対岸にもこの様な所が在るだろうと尋ねると、我々の熱心さに打たれたのか、もっと沢山有る所があると湖の対岸に連れて行ってもらいました。見るとそこは、舟の着いた水際から木が生えている所まで幅約十メートル、すべて破片とサヤ、砂や石はまったく見えない。足の踏み場もなく、結局破片を恐る恐る割って歩く状態であった。それも、右も左も見渡すかぎりである、物凄い量である。贅沢になり、気持ちも落ち着いてきたのか、数少ないが文様のあるもの、爪型の水注、水注の注ぎ口や手、合子、盤口壷の口辺など見ることができた。時を忘れていると、船頭のおばちゃんと先程から同舟した箒売りのおじさんがしきりに大声で叫んで、手招きをしている。たぶん、夕刻になり風が出てきたので戻れと言っているんだろうが、ここは言葉が通じないことに託つけ無視すること一時間。陽も傾きさざ波も出てきたこともあり、諦めて舟に戻った。半日ひたすら下を視続けた顔を上げ、松の林にひっそりと佇み暮れゆく「上林湖」の夕景を惜しみながら、この感慨に耽っていると、急にリュッサックの中のパンを思いだしパクつく。こんなにパンが甘く感じたことは始めてだった。親切にして頂いたおばちゃんとの別れ際、残ったこのパンを差し出すと、堅く辞退され失礼なことをしたかと後悔しながらも、我々は腹一杯と身振りで示すと受け取ってくださった。堤を登り振り返ると、おばちゃんの仲間数人集まり美味しそうに食べていた。「やはり本当は……しかし……」こんな田舎の船頭さんにも中国民族の気概を痛感させられました。我々は体が冷えきって、慈渓市内に入り、暖かい飲み物でひとごこち、真っ暗になったデコボコ高速道路を飛ばし、杭州のホテルに夜遅く着き、美味しい「紹興酒」で乾杯・乾杯、また、乾杯!

2.正しかった「机上の工程」(陶説541号 1998.4.1)

 自分の常識でしか考えられず、疑っていた過去の文献、作陶の経験のない人達の見てきた報告を「机上の工程」と決め付けてきたが、それは、現実のものであった。  「上林湖」での期待以上の成果を胸におさめ、次なる目的地「景徳鎮」に向かうため上海にもどる。予定の飛行機が欠航、夜汽車で15時間の旅となった。まだ真っ暗な夜明け前に降り立った景徳鎮駅は、小雨がけむる中、中国独特の人、人、人でごった返していた。ホテルでシャワーを浴び、朝食を済ませ、早々にまずはこの地に来て、『昌江河畔に立つ』をどうしてもやってみたかった。 あの有名な浮橋は、今年の台風で流されてしまって残念ながらみることは出来ず、河原でその名残を惜しんでいると、朝早くからこんなところに立っている珍しい三人の周りを、大勢の人達が囲んできてしまった。少々怖くなり、そこを離れ、珠山大橋から昌江大橋までの西側およそ二キロメートルほどの沿江西路を散歩することにする。
 しとしとと降る小雨の中、左手にゆったりと流れる「昌江」を眺めながら歩いていると、河原では川底をさらって砂を採取している。そして、大きな砂利と小さな砂に分けているではないか。一目散に走って河原に下り、捨てられた大きな砂利の山に向かう。『きっとその中には!……』地表面には見られない、昔々に川底に埋まった破片が混じっていると三人は思ったのだった。「あった、あった」砂利に混じって破片、トチン、ハマがいくつも、しかし、どう贔屓目に見ても、明末位の「染付」の破片しか見あたらなかった。見当は間違ってなかったが期待ははずれ、肩を落とし堤を登り歩道に出て下を見ると、その舗装をした地面にはあの破片やトチンがいたる所にはまっていた。さっきの砂採取場の砂は舗装に用いられるのであった。
 町全体の雰囲気を見たく、市内中心部に位置する「龍珠閣」に登り市内を一望する。いたるところに煙突があり小雨の中、煙がけむっていた。いくつもあった国営の瓷廠はほとんどが倒産し、そこにいた職人さん達の中には、腕のいい人は個人の経営者になっているそうで、たくさんある煙突はほとんどがその工場である。時代の流れを感じざるをえなかった(この閣の2、3階には沢山の景徳鎮で発掘された展示物があった)。そんなことよりも第一の目的でもある、先年、日本でも、開催された「皇帝の磁器」展(平成7年)で有名になった『品陶斎』を尋ね、修復なった『永楽』『宣徳』『成化』の染付、赤絵等を拝見する。中でも、『成化』で緑釉の水注と碗は大変珍しく初見であった。一点、一点ケースから出して下され、中澤氏はメモを取ることしきりであった。
 夕刻、焼き物の自由市場に入り一回りするが、ここに並んでいるものは先ほどの個人経営の作品だそうだ。ほとんど倣古のもので、銘まで写している。日本でいうような個性を優先する作品は皆無であった。
 窯跡の方は、市街東方の「寺前」「南市街」「柳家湾」「黄泥頭」、湖田にある「葫芦窯」「馬蹄窯」、「楊梅亭窯」等に案内して頂くが、遺物で見る限りほとんどが青白磁の窯であった。そんな中、ちょうど道路工事現場になっている横の破片の山に登らせて頂くが、そこの破片は他の窯に比べ発色がよく青の色が綺麗なものが沢山あった。そして、伏せ焼用のトチンが共土でもあった。今回見て回った窯跡に残るトチンは見る限り全てサヤ土に近いもので出来ていたが、ここの窯は共土で出来ている。これはまさに上手の窯である。
 この湖田には今も伝統的に作っているところが幾つもあった。たぶん、個人経営の人達だろうが、そんな路地の中に、作品がほしてある一軒に足を踏み入れさせてもらう。『あッ、これは』昔、文献で読んだことのある工程ではないか、自分でも疑ったが、目の前の現実はどうしようもないことだ。これは、ヤキモノを作る工程上のことだが、まずロクロで成形する。半乾きのとき外側を削るのだが高台の中心部分を棒状に高く柱のごとく残しておく(これがびっくりすることである)。この状態のままで内側の絵付けをし、内側の釉掛を済ます(まだこの柱はそのまま)。そして外側の絵付けをし、その後、この柱を削り取り外側の釉掛となる。私は(日本では)削りのときに全て素地は完成させてしまい、それから、絵付け、釉掛とするのが当たり前と思っていた。第一その柱を削るとき内側に掛けた釉薬がすれて剥げてしまう恐れがあるし、乾燥しきった土は硬くて、削れない。ところがどっこい、中国では、絵付けの時はしっかりつかめるし、内側の釉掛の時もこの柱を持てば楽に施釉が出来るということだそうだ。日本式だとふたりがかりでするか、特殊な道具を必要とする。成る程と思ったが、カンナも珍しい形をしていたし、この柱を削るところをお願いしやってもらった。流石、うまく削っている、それに土の性質も乾燥しきっても削れる土なのだ。過去の文献や、このことを見てお話くださった方々を疑って信用せず、それは作陶経験のない方の『机上の工程』と思っていた。今迄の、自分のかたくなな性格を反省した。その後,幾つかの作業場を拝見するが同じ工程であった。ただ、日本式でやっているところもあった。焼き上がった状態ではまったく判断がつかないことが、実際その作業工程を拝見し確認ができたことは大変勉強になりました。
 湖田での昼食は観光客の入るような所はまったくなく、町の小さな飯屋の軒の下で組み立て式テーブルを歩道に持ち出し、肉入り焼きそばを目の前のコークスコンロで、おばちゃんに手際よく作ってもらい、ピータン、ビールはラーメン用の丼にレンゲで掬って呑むように進められるが美味しくなく、丼からガブ呑みする。これが『景徳鎮スタイル!』??
 食事のことで今ひとつ、まだまだ、予定の計画がある中澤氏を残し、我々二人は数日滞在した景徳鎮から帰路となるが、やはり、飛行機が欠航で又、夜汽車となった。それも今度は18時間、何故来るときよりも3時間も余計にかかるのだ。尋ねると、停車駅が多いとのこと。そういえば、こちらの各駅の停車時間はたっぷりある、15分から長いところでは30分以上ある。中国の方が日本に来て、新幹線に乗ろうとして、余りに短い停車時間に乗りそこないそうになったり、またスーツケースなど持っていたら降りることも出来ないといっていた。成る程と思う。ともあれ18時間掛かる、だが、たまたま幸運なことに、4人用のコンパートメントを二人で占有することが出来た。しかし、食事は二度取らねばならない、往路の時、食堂車の印象が悪かった(メニューの全てを注文したが美味しくなかった)そのことを、景徳鎮でお世話になったガイドに相談すると、それなら夕食と朝食を特別注文してあげると、乗車時に車掌さんへメモを渡し注文してくれた。発車後暫くして車掌さんが来て、そのメモの横に数字を書いて持ってきた。見ると、少々どころかかなり高い、でも、値切ることに慣れてきた我々も、ここは格好をつけて承諾する。すると、ここへ持ってきてやるとルームサービスを手振りで示してくれた。さすが『お金の力』と思っていたら、夕食の時間になると、白衣の食堂のおばちゃんが特別注文の料理を運んでくれ、後ろにはあの車掌さんがビールを二本とコップを持ってやってきた。コップを受け取ったが狭いコンパートメントの机のこと、置くところに困っていると、車掌さんが腰をかがめて、どうぞ(言ったかどうか?)、こちらも無意識にコップを彼の前へ、お酌させてしまった。浦上氏も、負けじと彼の前へコップを!こんな気分のいいことは。しかし、車掌さんもここにいては勤務外の何をさせられるか不安になったのか、一杯ずつで早々に退散してしまった。でも、この車掌さんは格別の制服を着ていたし、各車両の車掌ではなく、きっとこの列車の一番偉い車掌さんだったようだ。景徳鎮のガイドさんがどのように我々二人を説明したかは、未だ知る由もないが、「日本の大金持ち」とでも、紹介したのか?(それにしては身なりが汚いが)こんなお持て成しに嬉しくなり、食事も美味しく、二本のビールはあっという間に空となった。旅の間、大切にとっておいたウイスキーをも取り出し、これも全て呑んでしまった。ここちよい酔いで横になり、車内音楽に目を覚ますと外はもう明るくなっており、朝食が運ばれた。もうあの車掌さんとは会うことは出来なかったが、18時間という長い時間を退屈せずに過ごさせてくださった。謝謝。 再見。

(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1998)

そこに座れ
1997年 陶説 (537) 寄稿

川瀬 忍

「おい、しのぶ」と呼んでくださる方が、もうおられなくなってしまった。偲えば、まだ二十歳前のこと、鎌倉のお茶の先生の元に入門して間もなしに、先生のお供で、新宿区中町の是信庵様御水屋にお伺いし、是信庵様こと梅沢信二先生にお会いさせて頂いたのが初めてでありました。以来、三十年近く、「おい、しのぶ」と呼ばれていた。私は「社長」と呼ばせて頂いていたが、本業であられた『医事新報社』のお仕事とは無縁であった。
 初めて伺った御水屋は、連日の御茶事が続いた何日か目で、席主であられる社長と奥様のほか、怖そうな家元、うるさそうな長老のお茶道具屋さんが座っておられ、お出入りの道具屋さんまでは畳の部屋に上がっておられた。それに若い番頭さん達が四、五人、お庭の方、料理方が三人程いらした。どうして五人程のお客様に、こんなに裏方が詰めているのか不思議であった。私はいい道具を見せて頂けるからと先生に付いていったのだが、懐石が始まり順次料理が運ばれていった。すると、社長が席主の分を私に下さった。頂く立場でないとご辞退したが、「毎日食べているから飽きている、初めて来たから食べろ」とビールまで勧められ頂いてしまった。そういえば社長はいつも小ビンのラガービールを好んでいらした。茶事が終り御道具をしまわれるとき、ゆっくりと拝見させて頂く事が出来た。その頃、お住まいの茶の間のほうから賑やかな声がきこえてくる。名残惜しまれる今日のお客様方に加え、社長の極親しい方が遊びに訪ねて来られ美術談義に声が弾んでいた。私はおいとまの御挨拶と思うと「ゆっくりしていけ」と茶の間の隅に通されお話を聞かせて頂いた。そんな折りも、お客様と同じ様なおつまみとお酒を用意して下さっていた。堅苦しさはあったが、いいものを見せて頂きその上美味しいものを食べて飲ませて戴く嬉しさと、次第に厚かましさも加わり、以後、社長のお茶事の折には心はずみ何度となくお伺いさせて頂いた。そういえば、社長のお道具組には必ず観賞陶器を加えておられた。それも、宋、明初、清朝の官窯である厳しいものであった。お茶の世界に官窯ものを取り入れられたのは社長が初めてではないかと思っている。中国陶磁に憧れている私にとっては引き締まるような感じで、嬉しく拝見させて頂いた。
 親しくさせて頂くうちに、こちらからコレクションの拝見をお願いしたことも何度あった。神田駿河台にある梅沢記念館にお伺いして、蔵から出して頂き、暫くお話をしながら拝見していると、「ゆっくり見たいんだろう」と座を外してくださるお心遣いを頂くこともあった。昼時になると、近くのお蕎麦屋さんに誘われ、午後また、予定外のものを出して下され時の経つのを忘れて拝見するうち、夕刻、「喉が乾いたろう」と社長行きつけのホテルのバーへお供する。まず、そのホテルの玄関でドアマンが「お帰りなさい」と社長にご挨拶する。初めはびっくりしたが毎日のコースであったのだ。バーでは顔なじみのご友人が沢山おられ、喉の乾きも治まったと思ったら「腹減ったろう」と隣のレストランに席を変えステーキの特大サイズを注文して下され満腹にさせて頂いた。
 甘えたことばかり思い出しておりましたが、社長が日本工芸会東京支部長に請われて就任された直後、鎌倉山のご別荘に、高松宮殿下をお迎えられ、工芸会の会員の方々と懇親する会を催されました。親しくさせて頂いたこともあり、前日よりお伺いし夕食をご馳走になった後、若い仲間数人で外に出て呑んで夜遅く別荘に戻ったとき、社長がひとり待っておられました。一喝「そこに座れ……」当夜一緒に泊まる先輩方に寝具の用意を煩わせてしまったのでした。“もの”を見るときも、お酒の席も凄く寛大にして下さっているようでも、わきまえることを外したり、秩序を違えることには大変厳しく怖い社長でもあられました。
 是信庵様でお目にかかっていた若かった番頭さん達も独立しお店を構え、また、私と同じような立場で集まっていた作家の方達とも、同世代であったためか自然と親しくなり、数年前より年一回自慢のぐい呑を持参し一泊する会が出来、この春で、幹事が一廻りしたところでした。社長にはこのことお話しすることは出来ませんでしたが…。お通夜の夜また仲間と遅くまで呑んで語り合いました。

合掌

(陶説537号 1997.12.1)

韓国 慶北 聞慶窯にて作陶
1996年12月1日 陶説 (525) 寄稿

川瀬 忍

昨年、中国北方の窯跡を訪ねた仲間達と、今年は韓国 慶尚北道 聞慶窯にて作陶する企画を頂き、喜んで参加した。
 今回訪問させていただく“聞慶窯”とは、韓国 慶尚北道 聞慶邑 陳安里にあり。韓国で高麗茶碗の第一人者とされる、千漢鳳先生の窯である。
 このグループの旅行は毎回ハプニングで始まる。今回は突然の出発地の変更、名古屋空港が関西空港になってしまった。おかげで、朝三時に起床しバスにて土岐を出発。途中交通渋滞に巻き込まれハラハラ、ドキドキするも、無事機上の日韓陶芸視察団となる。
 聞慶邑 陳安里は忠清北道と慶尚北道の道境の峠下に位置しこの峠は李朝時代、鳥嶺山関門と呼ばれ三重の関門で都、京城を守る砦でもあった。そして、文禄の役において、加藤清正、小西行長が再会した場所でもある。石碑があり、さっぱり判らないハングル文字の中で漢字で書かれた二人の名前に親しみを感じた。また、この時代にこの国の陶工達が沢山日本に来て、今日の我々があることを思うと、この由緒ある地で作陶出来たことが嬉しくも感じられた。
 十日間で仕上げるなんて不可能と思ったが、成る程これなら。しかし驚くことばかり、まず、この真夏の暑い盛り、軒下の寒暖計が三十九度も指しているのに、仕事場にオンドルが焚いてある。これはその日に作ったものはその日に仕上げるというこちらの精神なのだ。つまり、朝、ろくろ挽いてオンドルの上にのせる。昼には高台が削れる。またのせておくと、午後には化粧掛けが出来、仕上がってしまう。そして一晩余熱で乾かすともう素焼きができる。こんなことは考えられなかった。我が家では陽に当たるところに出しても親父に怒られたし、そんなことをしたら高台が切れてしまう。千漢鳳先生にこの事を話すと、「韓国の土はいいんですよ」と笑いながら自慢しておられた。成る程この作業工程でいけば、気持ちの持続が一日に集約でき、結果として良いものができるかもしれない。しかし、徳利に絞った私は少々戸惑った。オンドルの上にのせて頂くと当然下から乾く。高台の削り加減になっても上半分はまだグニャグニャ。仕方なく、自分で早い目に外に出し風に当て調整をした。千漢鳳先生はどうしているのか聞きそびれた。
 各自で釉掛けをしたかったが今回は時間もなく、千漢鳳先生にお任せすることとなる。これがまた凄いスピードである。お嬢さんとお弟子さん三人で、まずお弟子さんが先生に高台をつかみやすいように作品をひっくり返して手渡す。先生はガバッと樋に浸し横の板におく。それをお嬢さんが手にとりスポンジで余分な釉を拭きながら重ね焼きの組み合わせを決めていく。我々がひたすら作った六百余点、それに釉も八種類程度あったが四時間程度で全て終了する。この間、先生がまるで釉掛けロボットのように思えた。各自で釉掛けが出来なかった残念よりも、驚きのほうがまさっていた。
 今度は、“めつけ”。工房へ伺うと“めつけ”用の土が皿の上に練ってある。粘り気がほとんどなく、丸められそうに思えなかった。まず、お嬢さんが“め”を作るのだが、右の指三本、左指一本で三角錐の形に“め”を作り台の上につぎつぎを並べる。先生が組み合わせた茶碗三段、盃二段の“めつけ”をして重ねる。この作業も午前中でほぼ終了してしまった。茶碗に五個、盃に三個の“め”をつける。その数およそ二千個は在ったろう。お二人のチームワークと手際の良さに頭が下がった。それと後で判るのだが、この“め”は焼成するとパサパサの粉末状になってしまう、したがって焼成後の“め”の掃除が極めて簡単で何の道具も必要としなかった。そして“め”土として再生ができるのだ。この時“糊”を加えて粘りを出す。
 窯詰、どこにいれるか、皆、気になるところだが、窯癖を熟知している先生にすべてお任せし、まったくの公平であった。これも、半日で終了。
 火入れ、焚き口の前に、ゆでた豚の頭、蒸した米粉の餅、ドブログの御神酒を供え、千漢鳳先生が韓国式、加藤芳右ヱ門先生が日本式でお祈りをし、いよいよ火入れ。大変大きな“胴木間”には電柱ほどの太さの丸太が一杯に立て掛けてある。その手前のタキギに火を付け、お供えのお下がりで宴会となる。約四時間後、胴木間の炎は次の“空の間”に移り追い焚き、そして、一の間、二の間の追い焚き、各間一時間足らずで上げてしまった。焚き初めからたったの七時間と極めて短く、焚き口も開けっ放し、ワレ、サメが心配になる。翌朝伺うと、もう入り口のレンガは外され窯出し、先生が窯の中に入り、全員で手渡し、庭先に並べられたおよそ六百点、よくもまァこんなに作ったものだ。壮観な眺めであった。一点一点見る間もなく、各自に仕分けし、荷造りとなる。
 十日間あっという間でしたが、見て体験し、同じ陶器を作るということでも違いの多さに驚きました。いいか、悪いかは別として、妙な芸術性、精神性などを問うこと無く、ひたすらに作ることに専念する姿に、我々が忘れ掛けている一面を感じました。
 最後になりましたが、大切なお仕事場とお時間を、十日間も我々に開放して下され、貴重な土、釉薬を惜しげ無く使わせていただいた、千漢鳳先生に感謝申し上げます。

(陶説525号に寄稿 1996.12.1)

中国北方の旅
1995年6月~1996年1月 陶説 (504~514) 寄稿

川瀬 忍

 1.扒村の笛 (陶説507号 1995.6.1)

この春、小山岑一氏よりお誘いを頂き、中国北方名窯視察団に、参加いたしました。
 ハプニングがたまにある中国旅行ですが、案の定、出発の定刻になっても、上海からの折り返し便の飛行機がまだ上海を出ておらず、仕方なく、空港レストランにて何時になるとも未定の時間を、久しく食べることの出来なくなる刺身,天麩羅、そして日本酒で気持ちの中ではもう旅行気分(ちなみに前回はガイドが航空チケットを忘れたとか)。結局、上海経由、西安のホテルに着いたのはもう、真夜中を回っていました。
 こんな旅立ちでしたが、中国国内はすべて順調で、無事全員楽しい思い出と十二分の収穫をもって帰国いたしました。
 今回は、銅川市黄堡鎮「耀州窯」、汝州市「臨汝巖和店」、禹県「釣台瓷窯」「扒村窯」、磁州「澎城窯」「富田窯」「観台鎮冶子窯」、定州「澗磁村窯」の各窯跡と、各地の博物館、考古学研究所、古陶磁研究所などを見学してまいりました。
 数多くの窯跡の中で、河南省禹県「扒村窯」の見学の折り、窯跡といっても現在は麦畑になっており、崖の断面と、畑の畦に沢山の破片と窯道具が散積している状態でした。畦道を歩いていると、ふと、足元の泥塊の中に、小さな穴のあいた一センチ位の印文ある丸い梅干の種のようなものを見付けました。 拾い上げて付いている泥と、穴の中の詰まった泥を細い木片でつついてみると、ひょっとするとこれは・・・・・。口を当てて息を吹くとピィーと音がでました。
ご案内頂いた現地の考古学研究所の先生に見せたところ、笛とのこと、しかし窯に入っておらず生素地とかで手渡してくださいました。その夜、ホテルで恐る恐る歯ブラシで泥を取り、水に浸してみても溶けませんでした。扒村の窯跡では、釣窯風のもの、磁州窯風の鉄絵、黒釉が沢山あり、そして宋三彩の破片を少し見ることが出来ました。となると、この笛はきっと三彩にする半製品ではないかと確信しました。きれいに洗っておもいきり吹くと、中国、扒村の大平原のまっただなか、数里は響く、高くすみきったきれいな音がします。「よびこ」か「子供のおもちゃ」なのか。中国宋磁に憧れる私にとって、これは、宋時代からの音のメッセージ、この上ない今回の賜り物となりました。吹き口の反対側には針でつついたような小さな穴があり、これも何とも言えぬあき具合で、早速、糸を通し首に掛け、肌身離さず帰国いたしました。
 最近の発掘調査で知ってはいましたが、数多くの窯跡をこの目で見、驚きました。それは、北方の窯々ではなんでも焼いていたこと、たとえば、耀州窯では磁州窯風、釣窯風、三彩もあり。釣窯では磁州窯風、耀州窯風の物が沢山あり。磁州窯では白磁があり。定窯でも磁州窯風の物があり。交通の便の不自由な時代、あの荒涼たる大平原を数百里も離れていても、時のニーズに応えそれを作っていった、中国の「焼き物人」の逞しさを感じました。
 いずれ、・・・・様式とか、・・・・タイプ、あるいは、技法による分類方法で呼ばれるようになるのでしょうが、中国陶磁の魅力にみせられている私にとっては、「・・・・青磁」、「・・・・窯」といったらそれらを思い浮かべ、その魅力を想像して膨らます世界はロマンもあり、いつまでも取っておいてほしいと思います。それと、以前、小山富士夫先生がおっしゃった「北方青磁」という呼び方は、今回現地を訪れてみて、このほうが相応しいと、先生の御見識の深さを痛感しました。

2.父への土産 (陶説 508 1995.7.1)

盧生の「夢の枕」で有名な河北省邯鄲よりバスに揺られ一路、磁州窯々跡のひとつ「観台鎮」へ向う。
山間に入ると左右に幾つもの“窯”?がみられるが、天井部分より炎がいきよい強く吹き出している。真っ平らな長方体の窯で何を焼いているのだろうと、バスを止めて近くによって調べてみたところ、コークスを作る窯であった。長方体の箱形の窯に、石炭を一杯に入れ天井部分を塞ぎ、下より火をつけ完全に火が回ったところで上より水を掛けて消し、コークスが出来るとのことであった。そういえば、窯のそばには水路があり水の便がよくなっていた。 窯といえば、河北の焼石灰を焼く窯もおもしろかった。円柱の窯で一回一回壊すのだ。材料を積み上げながら回りはレンガで囲っていき、高いものでは十メートル近くまで高く積み上げ、焼き上がると窯肌のレンガを壊しながら焼石灰を取り出す。焚口だけは残しておいて叉レンガを積み上げながら材料を入れるのだ。不合理と思ったが、このほうが窯詰め窯出しが楽なのか?こんな窯を沢山見ながら、ようやく、璋河を渡り「観台鎮」に着く。
「観台鎮」窯跡では、白釉、黒釉、劃花、掻き落とし、鉄絵などの破片が沢山見られた。そんな中、白地劃花の鉢で、外側が黒釉になっている高台部分の破片を見つける。思わず、『あァ これは!』…… いつぞや、父が日本橋の古美術商のお店で個展を開催させて頂いた折り、会場の下にある常設のケースの中に磁州窯の鉢があった。会期中、幾度となく見に行っては思案していた。最終日に思い切ってお願いして手に入れたものだが、内側が白地劃花で外側が、黒釉である。早速、黒い塗り蓋を作り水指に見立てた。茶室で使うとき、塗り蓋を取るタイミングが楽しくてたまらない。ほの暗い道具畳に塗り蓋がきせてあるうちは全体が真っ黒である。塗り蓋に手を添えながらお客の視線を感じたとき塗り蓋を取る、その瞬間、パッと真っ白な内側が目に入る、お客様は『あァ』と口が開く、やみつきで何度も父は愛用している。この鉢が生まれたところは、『ここなのだ!』、高台内に黒釉が輪状に掛かっているのも釉掛けの癖(浸しがけ)がぴったり一致する。いけないことは知りながら、無理をいってポケットにいれ、父への土産とした。 この破片はこの鉢の箱の中に一緒に納まっている。

3、よびつぎ (陶説509号 1995.8.1) 

河北省・磁州窯の中で、現在も焼き続けている窯が彭城鎮にある。焼いているといっても、今回見ることの出来た窯は耐火レンガ工場であったが、その作業風景が大変参考になった。そこでは耐火レンガを木枠の型を用いて粘土を木片で叩き込むのだが、作業台というテーブルがまったく無い、作業台は土間である。職人は土間より七十センチぐらい低く掘った溝に入って、土間を作業台として仕事をする。レンガ土を叩き込むには相当の圧力で強く叩かねばならない。もしテーブルならば、よほど頑丈なものが必要だが土間ならそのままでよい。型から抜いたレンガもそのまま横滑りにして乾燥場まで動かすのもさほど労力を使わないし、土の魂であるレンガを持ち上げたり、下ろしたりする必要もない。至極理に適った作業風景であった。  その窯のとなり村に、富田窯という窯跡がある。今は破片の山が築かれており、その昔、小山富士夫先生がこの山の頂に立たれた写真がある有名な破片の山である。現在回りは住宅地になっており、ご案内頂いた邯鄲の馬忠理先生によると、この山の破片は、今、家を建てるときに床下に敷く材料となっているとのことで、水はけが大変良く、この辺の家の下は皆この破片が敷きつめられているとのこと。驚いた……。遠くはるばるここまで来て感慨に耽って眺めている破片が、現地では床下の捨材とは、いくら『山』とあると言っても何と贅沢な人達であろう。もしこんなことが許され自分のアトリエの下が宋磁の破片であったなら、『私はこの上に立って仕事をしている』と言う、嬉しさと、緊張感で、もっとましな作品が出来るのではないか。いや、そんなことをしたらきっと天罰が下る。
 その破片の山に登り、先生に倣って記念写真を撮る。ふと、足元に白無地でぐい呑にぴったりな寸法の破片(と言ってもかなり大きい)を見つける。これをもう一つ見つければ……。破片の山を木片で崩し崩し一生懸命探した。ようやく見つけ、どうせ捨て材になるくらいなら、……ふたつをポケットに入れてしまった。帰国後、ひとつを、もうひとつの足らない部分の型紙を作りその形に切って、『よびつき』とした。ちなみに、今回ご一緒した梅原偉央氏もまったく同様のことを考えておられ、先日写真交換会の折り、彼の「よびつぎ ぐい呑み」を拝見する。いずれ近い日、この「破片のツーペア」が「ワンペアのぐい呑」となった記念の会を開き、苦労して探した思い出と、感激をこのぐい呑みに、美味しいお酒をみたし振り返りたい。さて、このときの徳利は、その夜、邯鄲での夕食後、外出し、町の屋台にあった銀か錫と思い込んで買った水注(暗くてわからず真鑈であった)を用い、そばには、『磁州窯の陶枕』を置いて楽しい夢でもみよう。

4. ねりあげの玉 (陶説510号 1995.9.1)

今回の視察団にご一緒したメンバーは、美濃の陶芸家の皆様でほとんどの方が中国古陶磁の収集にも関心があった。訪問した各都市でちょっとした時間があれば骨董屋を探し、物色する事も今回の楽しみの一つでもあった。一級品の掘り出しなどあるわけないが、見立てて使えるもの、日本には将来されていない珍しい初見のものなどはかなりあり、目的を持たずに尋ねれば楽しい思い出の品と出会えることがある。
 そんなある古道具屋で、ゴルフボールより一回り大きい寸法の焼き物の玉を見つける。何だろうこれは?。中まで無垢でどっしりと重い。不明のまま手に入れて持ち帰る。単純に土を丸めたものでもない、二種類の色の土が墨流し紋様になった“練り上げ”であり、球状にしてからひと削りしてある。たぶん、なにか意図があって作られたものだと思う。それにしても窯の中でよく“はぜず”に無事焼けたものだ。
 数年前、日本橋の古美術店で、宋時代の練り上げの碗を見せて頂いた折り、どの様にしてこの紋様ができるか尋ねられ、返答に窮した。専門ではないのだから仕方ないにしても、何となく面白くなく、頭の中でくる日もくる日も考え、また、実際に色々と試してみたが、なかなか解明できなかった。バームクーヘン、きんたろう飴、食事中にはマヨネーズとソースでまでも研究した。数か月後、ふとした思い付きで試したことがきっかけで解明できたのだが、こうなると楽しくてたまらない。いろいろと工夫をして幾つかの紋様が出来るようになり、小さな碗をかなり作った(作品は未発表)。その碗をひとつ作る度に出る余分な土は初めのうちは捨てていたが、(丸めて中間色の土とする)、せっかく苦労して作った二色、三色の土紋様を壊してしまうのはもったいなく、色が混ざらないように叩いて小さな土塊を作った。これも碗の数ぐらい出来るのだが、気にいった紋様の出ているものを焼いて金具を誂え、ペンダントとして親しい方へのプレゼント用とした。
 ひょっとすると、この玉も昔の陶工が私と同じように“せっかくの土”を大切にして球の形を作り窯の隙間に入れて焼いたものではないだろうか。となると、私のやっていたことが昔の陶工と“同じ心境”であったこととなり、嬉しくなってきた。(祖父が口癖で“土”を大切にしない者は、よい作品を作れないと言っていたことを思い出す)。これが作品を作るときの心境も同じであったならもっと嬉しく、きっとよりましな作品が生まれるだろうが。
 用途のほうは中国の方にも聞いてみたが判らず、今のところまだ判明していない。類品を見たという話しも聞いたことがない。どなたかご存じの方はいらっしゃいませんか。  墨流し紋様が細い、太いがほどよく混じり合い流れるようで、眺めているだけでも、どこか遠い宇宙の天体を見ているような気がする。何でもない玉だが私にとってはいろいろ想像でき、想いが膨らみ、はるか昔の中国の陶工からの声が聞こえるような気がしてくる。

5、約束 (陶説512 1995.11.1)

河北省邯鄲の街を出、澎城鎮の町に入ったところで、ご案内頂く馬忠理先生が当地考古学研究所へ打ち合わせに行かれる間に、暫く時間がありました。ちょうど、朝市があるとのことでバスを降り皆で歩き回る。懐かしいよい香りに引かれ焼き芋屋を見つける。ひとつ買い求め恐る恐る食べてみたら大変美味しい(日本を出て十日も経ったせいか)。次から次と窯の中のものをすべて我々が買ってしまった。側にまだ生のものがあったのでこれも焼いてくれと注文をしたが、窯がまた面白かった。日本だと“石焼芋”で、焼けた小石の中にいれて焼くのだが、こちらではドラム缶の形をした筒窯の内側に、輪上の棚が数段あり、そこに上から芋を置き、底に炭を入れて窯全体を熱して素焼きにするのだ。もう少し工夫をすれば焼き物の窯に使えるのではないだろうか(昨年の個展“風麗呼”の窯を思い出す。
 注文した芋が焼けるまで、近所にあった現在焼いている磁州窯の作品がある店に入る。掻き落としの壷、人形、ほとんどが“写しもの”であったが、隅のほうに埃を被っている茶碗に使えそうな寸法の碗を見付ける。手に取ってみると、これはまさしく“李朝の無地刷毛目”を意識したものである。土も他に並んでいる作品よりも鉄分が多く別作である。高台内に“?造”と読める銘まで刻してある。口作りと高台がこちら風だが、驚いた。今回まわった北方の他の窯々では磁州窯風の物を沢山焼いていたが、本家の磁州窯では李朝風のものも今焼いているのだ。技法的には無地の磁州窯と李朝の無地刷毛目とはまったく同じだが、焼き物の世界は遠くて近いものだと思った。帰国後、毎朝一服飲んでいるが、二か月程度使って“しみ(雨漏り)”が少しずつ現れてきた。
 注文した芋が焼けるころ戻り、これも全て頂いた。焼芋屋の夫婦はこれで今日の売り上げを消化したのであろう。満足そうな顔をしていた。隣の野菜の売り場で、清水久伸氏が“きゅうり”らしきものを買い求めた。これが今夜のご馳走となる。
 夕食後、例によって一室に集まり話が咲く。そこへ、浅漬のキュウリが今日収穫した“磁州窯掻き落としの破片”を器として運ばれてきた。このような気の利いたお持て成しには感激した。キュウリの味も、塩のつかり具合いもよく、一瞬、中国にいることを皆忘れたのではなかろうか。否これも邯鄲の夢。そういえば、旅行中で最も嬉しくなる夢がもう一つある。最終日、上海の劉河道にある古道具屋でのこと、この地は道の両側に古道具屋が建ち並び、そのうえ、歩道と車道の間にも屋台の古道具屋が店を出し、要するに、四列状に店が並んでいるのである。自由時間を利用して全員散開するのだが、二時間ほどしかない。あわてて走り回ったせいか、ほとんど収穫はなく肩を落とし集合時間ぎりぎりにバスに戻る。一歩遅れて前席の小山氏が戻ってこられ、「気にならないか?」と声を掛けられ、私も「オリベ」と返すと、「そうだ」。早速一緒に出発間際のバスを飛び降り目指すその店へ向かう、途中その店のお爺さんとばったり出会い、戻ってもらい店を再度開けてもらう。“織部升鉢”もう夕闇で暗かったが、雰囲気はいい、値段も嬉しい、小山氏に先に取られてしまった!。まさか上海で“オリベ”を求めるとは想像もしなかったが、これも御縁か。その夜小山氏は御機嫌で奥様に御土産となる服を何枚も利用して、厳重に包み大切な手荷物となされた。“当たったら” 御馳走になる約束だが、未だにお誘いはない、いずれと待っている。きっと未だひとりで楽しんで、にやにやとほくそ笑んでいらっしゃるのだろう。何と羨ましいことか!

6、北京大学賽克勒考古興藝術博物館 (陶説513 1995.12.1)

定州より高速道路(北京―鄭州―上海)にて一路北京へ向いました。途中サービスエリアのようなものはほとんど無く、誰となくガイドさんに声を掛けバスを止めてもらうが、ほとんど全員がバスを下車し外の空気を胸一杯深呼吸する。高速道路を降り北京市内に入っても、さすが中国第一の都市、交通渋滞も重なってなかなかホテルに着かず、結局夕食のレストランへ直行することとなる。冷たいビールで今回の旅行目的達成の乾杯をすることとなったが、団長さんの挨拶の後、傾けたグラスのビールが一気に飲めなかった。何日もこれを心待ちにしていたはずが、お腹の方は生温かなビールに慣れて拒絶反応を示したのであろう。ほとんど全員の方が飲み干せなかった。喉と心ではこんなはずではなかったが。そこで紹興酒を注文し乾杯のやり直し、この紹興酒もメンバーにはうるさい方が多く、北京ダックに取り合わせる紹興酒を決め、宴会が始まるまでには少々の時間が掛かった。しかし、有意義な窯跡訪問の興奮のせいか、長旅の疲れなのか、早々に酔いも回りホテルに向う。
 翌日、昨年の小山富士夫記念賞を受賞された北京大学の李伯謙先生を尋ね、北京大学賽克勒考古興藝術博物館(北京大学内西北部、一九九二年十月落成)を訪問する。
 まず、目を見張ったことは、この博物館の内装設備の素晴らしさであった。残念ながら中国国内(特に地方ほど)の博物館、考古学研究所の施設は親切とはいえない。前回の中国訪問で経験し、懐中電灯、接写望遠鏡は持参したが、この二つ(特に強力懐中電灯は必需品)を持ってないと博物館訪問も半減してしまう。ところが、ここ北京大学賽克勒考古興藝博物館はこれをまったく不要とした。照明も素晴らしく、陳列台の高さも程よく、極めて最新の設計で建てられた博物館であり、その上、陳列品も全中国から集められた、最近発掘の珍しいものが沢山並んでいた。この中で驚いたのは、日本でも近頃、話題を呼んだ、山東龍山・黒陶高脚杯の形で、白い土で出来ているもの(口絵3参照)。卵殻ほど薄くは成形されて無いが、“大汶口の鬹”の土から砂気を除いたような土で出来ており、大変心を躍らされました。また、戦国、漢のもので彩色の極めて素晴らしい状態のものがいくつか在り驚きました。まだ日本では、この博物館の存在は多くの方に知られていませんが、故宮博物館とはちがった意味で、北京での日程には是非入れてほしい博物館のひとつだと思います。
 李先生のご案内で館内を一巡した後、我々が日本の作陶家であることでもあり、北京大学で今作られている作品も是非見せたいとのことで拝見させて頂き、その作者(李民学氏)も交えひととき意見の交換を致しました。彼は青磁、鈞窯風のものを制作されており、文物商店にあるいわゆる御土産用とはちがい、本格的に作っていられました。だが、釉薬の研究が先行して、形、高台にはあまり神経を使っておられず、特に高台はほとんど心配り(日本人的)がありませんでした。作品に対しての感想を求められたので、このことを指摘致したところ、そのような高台は“技術が未熟で稚拙なもの”だとの一言、これには言葉を返すことが出来ませんでした。中国陶磁には、朝鮮、日本陶磁ほど高台、土味等は求めないのでしょうが、やはり、“目で見て””手に取って“”返して高台をながめる“という鑑賞態度は日本人だけのものなのでしょうか。中国陶磁の歴史を振り返ってみても時代が下がるにしたがって、その様なことよりも”より精巧“にという方向に流れているのだから、現代のものはこの様な形になるかも知れません。  私もバックに入っていた色見のぐい呑を見て頂き、所望されましたのでプレゼントとなり、その返礼に李民学氏の作品を頂戴致し、今後も“やきもの”を通じて意見を交換する約束をして参りました。私にとっては沢山の資料に囲まれて仕事をしている彼が羨ましく思いました。

7、潤磁村の窯 (陶説514 19961.1)

今回の北方の窯遺跡訪問も最後となったのは、定州・潤磁村の定窯でした。定州市招待所に宿泊し朝早くバスで出発し、市街地を出、山間部に入ると道は未舗装となり、すれちがうトラックにはコークスが満載され、こぼれんばかりでした。五十数年前、定窯の窯を発見された小山富士夫先生はこの道を何日もかかり馬車を使い進まれたとのことをお聞きしながら、途中、“思いがけない窯”(六月号小山岑一氏紹介)、焼石灰の窯を車中から見て、よくやく潤磁村に入りました。この村には現在、大きな火力発電所がありその横を抜け、めざす定窯々遺跡に着きましたがバスを降車する前にガイドさんから厳重な注意がありました。「万が一、靴の紐が解けても絶対に結び直さないでください」(しゃがんで遺跡を手にしていると誤解されてはいけないので)。それくらい厳しい条件でしたが、バスを降りて膨大な量の破片と窯道具(とちん)の山を見て驚きました。特に“リングとちん”がこんなにも沢山あるということは、それと同じ量の製品を焼いたこととなるわけで、そしてもっと感じたことは、その“リングとちん”が何段にも重なったままの状態で見られたものが数多くあることでした。この状態で残っていることは、窯が失敗であったということになるのです。なぜなら、窯出しをして“リングとちん”に乗せ重ねて焼かれた鉢を取り出すには、まずこの“リングとちん”をひとつ、ひとつはずさなくては、構造上不可能なのです。それをせずに重なったままの状態でこのように数多くあることは、窯の失敗がいかに多かったかを示していることとなり、その当時の窯を焼くことに対するご苦労が思い知らされました(へたって何枚も重なった鉢もみられました)。それにしても、重ね焼きすること事態、燃料の重要性を意味していますが、このように窯の失敗が沢山在っては、造っていた工人の気持ちを思うと、同じ造り手の立場である私達は、いたたまれぬ感がします。今なら、造り上げたものを窯の失敗を恐れ、数回に別れて焼くと思います。人間の手間よりも燃料がいかに大切であったかを示しており、現在とはまったく違う価値観であったのでしょう。
 今回は、窯遺跡番号九、十、十一番を見せていただきましたが、刻文、印文のほか、遺品の極めて少ない黒定、柿定の破片も小さいものでしたが見ることができたことは大変嬉しかったです。ここも現在、破片の山の側は畑となっており畦にも沢山の破片を見ることができました。
 定州市・定窯博物館では、近年発表された“静志寺”“浄衆院”発掘のものを数点見せていただきました。館内が暗く、自然光の下でと御無理をお願いし適えてくださり、“浄瓶”“長頚瓶”“官”の刻文のある碗等いくつか拝見しましたが、今まで目にしてきた定窯とは異なっており、これが初期のものなのか……、いずれ研究なさられると思いますが、技法的にも典型的タイプとは異なっておりました。
 今晩は北京、大切に十日間持ち歩いた“するめ”を夕食の時、レストランの厨房に入れて頂き、真っ赤に焼けたコークスの竈の火で炙らせてもらいました。大勢のコックさんが珍しそうに集まってきたので、一枚を差し上げ裂いて食べることを示しこちらが食べたら、恐る恐る口に運んでくれ、にやにやと笑ってくれましたが、美味しかったかどうかは言葉が通じず分かりませんでした。我々のテーブルではすっかり慣れてしまった“冷えてないビール”のつまみとなりました。
 七回にわたり、拙文を書かせて頂きましたが、大変有意義で収穫も沢山あり楽しい旅行でした。この紙面を借りて、企画いただきた林敬博氏、中国国際旅行社で中国陶磁通の宋小凡氏、並びに、ご一緒させて頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。

(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1995)

三千年目の再会
1991年 「紀元前 中国陶器」展 寄稿

川瀬 忍

 この力強い生命力を感じさせる「灰陶鬲」ふたつ、よく似た作行きであり、見れば視るほど類似点がある。いや、あり過ぎる。ひょっとするとこの二点は同時に誕生したのではなかろうか。
数年前、私はこの内のひとつに魅了され眺めているうちに、ふと、作り方のヒントを得、以来そのことに拘り続け制作した経験がある。
これを作るには、工程を二段階に分け、その間少しの時間を置く、そして最初の段階で作った筒状の形が、最終的に出来上がる三足の形を決定してしまう。このように、空洞の三足造形である「鬲」をこれだけ似せるには、まず筒状の形を同じにする必要があり、ふたつ平行した作業でなければ極めて難しい。
そのうえ、私を決定的にその様に感じさせたことは、足と足の間の、何の作為も感じさせない「へ込み」具合である。それも、少し傾いているところなどは、単に個人の癖という以上に、その瞬間における作者の心の具合までも、同じ様に現れている。
まったくの私見だが、もしそうであったとしたら、なんと素晴らしいロマンではなかろうか。
三千年もの昔、ある日、ある所で、ある卓越した巧人により、作り上げられたふたつが、はるか悠久の時を経て、遠く場所を移し、ここ、名も相応しき蒼穹堂に、みごと再会したのである。果てしなく夢のような空想が沸いてくる。

 見た限りにおいて、このタイプの灰陶鬲の中で最も魅力を感ずるふたつであり、そして、この魅力のとりこになってこれを運よく掌中にすることが出来た二人は義兄弟とでも言うわけか。

「紀元前 中国陶器」展 1991年 浦上蒼穹堂)に寄稿

汝官窯への想い
1991年12月25日 目の眼 (184) 寄稿

川瀬 忍

  台北、故宮博物院を最初に訪れたのが、今から、20数年前、南宋官窯青磁を勉強するためであった。その頃、故宮博物院では、今とちがい大変沢山の展示物が陳列され、青磁だけでも一室もうける程でした。
 私は もっぱらその室で時を経やしていた。
 当時、日本でもようやく官窯青磁が注目され始めた頃で、我が家の祖父(初代竹春)の世代では、“青磁では砧が一番”という解釈であり、その様に教えられた。しかし、自分なりには官窯青磁の方が勝っていると思うが、それは、唯、砧よりも厳しい作風であるという程度のことだった。
 その官窯青磁を勉強する目的で訪れたのだが、静かで、控えめで、暖かく、見る人を吸い込んでいく青磁“汝官窯”に心ひかれてしまった。優しく高雅な幽玄の美しさを感じさせるのである。
 帰朝の前日、ご好意で幸いにも、手に取らせていただく栄をえたが、ほとんど汝官窯の作品に絞らせて頂いた。
 中国の陶器と日本のそれを比べる場合、つめたい、かたい、と評するが、こと汝官窯には、この言葉は当てはまらないと思う。決して威張りもせず、心静かに自分を抑え内面から滲み出るものを表現しているのだ。力強さというものは表面からは感じられないが、だからといって弱いのではない。
 雨過天青という言葉の青に、澄みきった青空をあてるが、私は澄みきる数時間前の湿潤なうるおいのある空気の中に見る「青」と思いたい。押せばへこむのではないか、体温があるのではないか、だれもがパッと目を見張るようなものではなく、気を留めていないと見過ごしてしまうような存在。
 汝官窯を見ると、いつもこの様なことを想うのである。
 そして、この“想い”に憧れながら、自分の心境をダブらせたいのである。

(里文出版 月刊「目の眼」 1991.12.25発売 特集“青磁”に寄稿

酒会壺を囲んで
1984年1月1日 炎芸術 (5) 寄稿

川瀬 忍

  我が友に、手段こそ違うが美を求め、追求し、それを表現しようとする仲間がいる。この友と語らい、互いの美意識を交換すると、自分の作陶にとって直接的でない故か、大いに刺激となり発奮することがある。
このような友を呼び、語り合う時、そのもてなしとして、肩を張って独りよがりなお茶事のまねごとでもと試みてみるが、やはり、これでは物足りぬ。心行くまで語り尽くそうと思うとき、いつもすることがある。
自作の酒会壷に日本酒を張り、真ん中に据えて、柄杓を掛け、やはり自作のぐい呑みを並べて友を待つ。その昔、酒会壷はこのように使ったものなのか、“酒会壷”とは誰がつけたか、よく言った名だと感じる。徳利に一合、二合と入れて往復する手間も省け好都合である。偶然か、我が友はほとんど冷や酒好みときている。そのぐい呑みは、すべてテストピースの色見。気軽に作意もなく作った、色見の不用なものが我が家には数多くある。この中から面白そうなものを取り置き、このような時に使う。今回は、楽しみで作ってみた色見を並べてみました。興に乗ってくると、柄杓でぐい呑みに酌む手もおぼつかなくなって、どちらからともなく大きなぐい呑みの所望となり、益々話が弾み宴は尽きようともせず、誠にもって楽しい。
酒さえあればこと足りる我等若者もやはり少々の肴も欲しい。よく通う近所の鮨屋「鮨好」で、このおやじ自慢の“おおとろのたたき”。それも脂がのりすぎたインド鮪の鎌下のところを、沢庵と浅葱を加えた“たたき”。トロのピンク、沢庵の黄、浅葱の緑が青磁の器に彩りもよく、また、冷や酒にこの上ない肴である。
“官窯青磁”それも、あの幽玄蒼古な美しさを持った汝官窯の鉢や皿は、如何にして使われたのであろうか。思うに、遠路より貢がれた山海の珍味をその皿に盛り、絵を論じ、詩を評した、微宋皇帝の食卓模様。その時の有様を想像すると、頭の中に自分が求めようとする、馥郁たる芸術的香気の満ちた世界が浮んでくる。
青磁、それも宋時代の官窯青磁の魅力にひかれ、ひたすら追い求め、そこに自分を主張する時、官窯青磁の持つ技術の粋を尽くし、しかも、幽玄で、気品のある美しい“品格”と、自分の発想によるくだらない造形の対比。いかにしてその“品格”を崩さずして、自分の造形を表現するかである。我々作陶家に与えられた、他の工芸にない特性、それは土には可塑性があることである。これを追求することが、作陶を志す者の進むべき道であると思う。しかし、あまりにこれを強調しすぎると“品格”を失う。この闘いが今の私の仕事である。

(炎芸術―5 器に盛る 5 阿部出版 1984.1.1 に寄稿)

活きた土 死んだ土
1993年 講談社寄稿

川瀬 忍

 自分を表現する方法を、作陶という手段を選んでいる現在、他の工芸にない表現 方法は、土から作るということを常に念頭に置いている。形を決める段階において、 やわらかい粘土を用いる―これを古人は活きている土といった。死んだ土(固まっ た土)を用いるなら、作陶を選んだ意味がない。この活きた土をもって形を作るこ とが、作陶家に与えられた義務でもあり、特権でもある。
  このようにして作ったものを窯に入れ、焼かれたものには、きびしい形であって も、やわらかさがあり、冷たそうに見えても、どこか温かさが表現される。このよう な理想を持って、今、日々作陶に励んでおります。

(現代日本の陶芸 第9巻 伝統と創造の意匠(1983年 講談社)に寄稿)

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